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帰ってこないぜ〔4053〕2014/05/21

帰ってこないぜ

2014年5月21日(水)晴れ!

昨日はよう降りましたね〜。夜、街へ出ちょりましたが、家に帰る頃は結構な雨脚で、びしょ濡れになってしまいました。そして今朝は雨も上がり、爽やかな初夏の朝。
この季節、一雨ごとに、緑の色が鮮やかに深まっていきます。生命の不思議さと力を感じさせてくれる、雨と緑。

ここは今朝の黒潮ライン。空港の南、前浜から十市の方へ向かう途中のちょっと北側から西の方角を撮影しました。この川は後川。うしろがわ。あの向こうの琴平山を水源とし、海岸砂丘の北側を東進して物部川河口に流れ込む川。途中、新秋田川などと合流します。
その、新秋田川と合流するところから南にも流れがつくられ、太平洋への放水路が設けられちょります。切戸の放水路

以前、ご紹介しました。かつての物部川の河口と思われる場所。古代、物部川は、今よりすっと西を本流とし、切戸のところで太平洋に流れ込んでおりました。その河口部は内陸に切れ込んだ湿地帯で、天然の良港にもなっちょったようで、大湊と称される都市が形成されちょったと思われます。
いつしかその河口部にも土砂が堆積し、河口が東へと移動。本流も東へと移動して行って、現在のような姿になりました。

そして切戸は、陸地になって閉ざされてしまいました。しかし、藩政期。大雨による大洪水があり、物部川本流はもとより旧河道、流域一帯が大洪水となったことがあります。その際、昔の河口であった部分が切れて洪水の水が流れ出したので、切戸と呼ばれるようになったのでありました。

その後再び切戸は閉じられ、陸地になり、近代へ。しかし、この後川はこう配がほとんどない河川。排水がこじゃんと悪い(元々湿地帯ですし)ので、大雨のたんびに洪水になりよったそうです。で、昭和9年、かつての河口、切戸に放水路を設け、洪水にならんようになった、とされます。その放水路は暗渠放水路やったようで、今のように広い開渠の放水路になったのは近年のことにかありません。
それで連想するのが、こないだの、和食川の堀切。海岸砂丘の北側を東進していた和食川を、あの堀切の部分で太平洋に放水し、界隈を洪水から解放したのではないか、という想像をしましたが、間違いないようです。
和食川は、藩政期に、すでに放水路が構築され、効果を挙げよった訳で、後川は、昭和9年になってやっと放水路が作られた、ということになります。

地形や水路を観察すると、いろんなことが解ってきます。水路は、灌漑と治水、という大きな目的のために、こじゃんと考えられてつくられたものであることが、よく理解できます。自然の地形や河川、山を利用し、よく考え、綿密に計画を練って施工する。これが土木プランナーの使命でしょう。土佐で一番有名な土木プランナーはもちろん野中兼山さん。あの想像力、企画力、実行力は、真似できるものではありません。
物部川を、今の流路に固定化するきっかけをつくったのも野中兼山さんでしょう。山田堰をつくり、夥しい農地を開発しました。
その際、この後川北側の湿地帯までは、手が回らんかったのでしょうか。切戸のところに放水路を抜いても、海水が逆流して農地に海水が入ってくることを警戒したかも知れません。今の立派な放水路は、もちろん、逆流防止機能完備なので問題ございませんが。藩政期の技術としては、なかなか大変な問題であったかも知れません。

今は、たびたびの洪水に見舞われることもなくなったこの界隈。縦横に豊かな水路が走り、美田地帯となっちょります。その田んぼを汚さないよう、このような標語看板。
田をよごすと
帰ってこないぜ
石原裕次郎か小林旭のような、この台詞。なかなかインパクトがありますな。そう。汚したらいけません。

雨上がり。またひと際緑が濃ゆくなった田んぼと青い空。今日も暑うなりそうです。


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