源氏のぼっちゃんと平家の娘〔4051〕2014/05/19
2014年5月19日(月)薄曇り
ここは南国市篠原。田んぼの中の、小さな川沿いに、樹木。チシャノキという樹木で、自生しちゅうチシャノキとしては、日本最東端になるにかありません。
ここは、以前にもご紹介しました。「篠原の柏水」という、伝説の場所。大きな通りからは入り込んじゅうので、知る人ぞ知る、という史跡。
このにっこりでも、介良の冠者と呼ばれた源希義さんの話は幾度もご紹介してきました。頼朝の弟にして義経の兄。平治の乱で父の義朝が倒された際、兄の頼朝は伊豆の蛭ヶ小島へ、生まれたばかりの弟の義経は京の鞍馬へ、そして、希義くんは土佐の国、介良の地に流されたのでありました。そして、頼朝が挙兵する1180年までの21年間、そこで過ごしたのはご承知の通り。
介良ではどんな生活をしよったのでしょうか。
介良荘は、その頃、既に成立しちょりました。伊豆走湯山密厳院領の荘園。伊豆、走湯山と言えば、頼朝が、北条政子と逢瀬を楽しんだという場所。源氏にゆかりのある山。その、走湯山の密厳院領ということは、やはり源氏にゆかりがある荘園やったのでありましょうか。
頼朝は、伊豆で、源氏の再興を祈願したり豪族に身を寄せたり、はたまた北条政子との恋愛を楽しんだりと、比較適自由に過ごしよった感があります。この辺、平家も、詰めが甘い。そこまでせいでも、という感じやったのでしょうか。
で、希義くん、介良荘が源家ゆかりの荘園であったとするならば、比較的緩い監視の中での生活やったかも知れません。
で、1180年に頼朝が挙兵。
それに呼応しようとしたのが介良冠者、源希義くん。しかし、土佐は平家の勢力が強く、希義くんの動静が怪しいと見た平家方、平田俊遠や蓮池家綱などの奇襲を受け、数少ない土佐の源氏方、夜須七郎行家と合流しようと介良を出て東へ。で、ここで喉が乾き、農夫に水を所望したところ、柏の木の下で滾々と湧き出る水を教えられ、柏の葉っぱに水を掬うで、飲んだ、という伝説。
この樹木は、その時の木からは3代目になるにかありません。柏の木とされますが、何故か現在はチシャノキ。
で、こっから遠くない年越山、この写真の左端の山裾まで逃げたところで平家方に追いつかれ、討たれてしもうた希義くん。
ここは、介良からもそんなに遠くない。馬を使うたとすれば、まだ、出発して30分も経過してないと思われるような場所。そこで喉が渇いた、ということはどういうことか。
あまりに奇襲であったので、取る物も取り敢えず逃げ出して来た、ということかも知れん、と、妄想してしまいます。
さて。希義くんに関しては、様々な伝説も残ります。
土佐の戦国時代、七雄と呼ばれた勢力の一つに吉良氏がいます。春野を本拠とし、学問を奨励した吉良氏。戦国後期になり、本山氏に滅ぼされてしまいます。長宗我部元親の弟、親貞が、その吉良家を継ぎ、その息子吉良親実が、元親後継を巡って元親に諫言したため家臣とともに殺されて「七人みさき」の伝説になった、という話は、こないだも書きました。う〜ん、話が逸れる。書きたい伝説は、元々の春野の吉良氏。その吉良氏の祖が、源希義である、という伝説。
どういうことか説明しましょう。
介良荘で暮らしておった源希義くん。こともあろうに、平家方の平田俊遠さんの娘の所へ通いよったとか。で、その娘が産んだのが源希望ちゃん。希義くんが討たれ、源平合戦が源氏の勝利で終わった後に、頼朝にも認められ、吉良八郎希望、と名乗って土佐吉良氏の始祖となった、という話。ホントとすればなかなかやります。
ここで連想するのは、頼朝の彼女。北条政子ちゃん。北条氏も、平家。希義くんが通うた平田の娘も平家方。源家のぼっちゃんたちは、何故か、平家方の娘に手を出してしまう性癖があったのでありましょうか。そうとすればなかなか楽しい。
これが歴史の不思議さ、面白さですな。