物部川の役割、流路の変遷〔4017〕2014/04/15
2014年4月15日(火)快晴!
これを快晴と言わずして、どんな天気を快晴と言うのでしょうか。と、いうくらいキレイに晴れ渡った高知県地方。青空が広がり、さわやかな春の風が心地良い朝。ここは物部川。あの青い橋が国道55号線の橋で、その南の西岸から撮影してみました。この堤防界隈、耐震補強の護岸工事ですっかりと姿が変わってしまいました。この土手の下には雑草が生えちょりましたが、それもなくなり、河原に直接降りて行けるようになっちょります。
昨日の上岡八幡宮さんの鎮座まします上岡山が対岸に。そしてその向こうに三宝山が見えます。
何度も書いてきましたが、この、物部川の中に連なる石、これは、石灰岩の露出。向こうに見える三宝山から、この南西方向に見える稲生の山を通ってずうっと西まで、石灰岩層がつながっちょります。太平洋のとっと南から移動してきた、元々珊瑚礁を形成しちょった海底が南海トラフに沈み込み、陸側のプレートに付着してメランジュとなって、石灰岩層を形成した訳でしょう。
三宝山と稲生の山を結ぶ線上に、この、川を渡る石があるのを発見したときは、ちょっと、嬉しかったです。地球の面白さを、自分の発見で体感した瞬間。
さて。
物部川。こないだ、三嶺に登っちょって、その源流のひとつである山頂真下の湧き水を飲んできました。その物部川は、工科大学の下流、神母木のところで香長平野に流れ出ます。そこからの流路は、太古の昔から洪水のたびに変わり、平野を潤し、洪水ですべてを押し流したりしながら歴史を刻んできたのでありますね。
現在の流れは、たぶん、物部川の歴史の中でも、もっとも東寄りの流路となっちゅうがやないかと思われます。しゅっと東が野市の洪積台地ですき。
昔は浦戸湾に流れこみよったとも言われる物部川。西へ西へと流れておった時代が長かったようです。弥生時代、この西側の田村に南四国最大級の集落が形成された時代も、今より随分と西が本流であった物部川。田村の弥生集落は、数百年に渡って物部川の自然堤防上に続いた大集落。その集落を維持したのは、間違いなく物部川であったでしょう。
もちろん、稲作や農耕用の水は、物部川や無数の枝流から取られたでしょう。伏流水も多いので、ちょっと掘れば水は湧く。あと、ちょっと考えたのでありますが、燃料。
人々が生活する、ということは、大量の燃料を消費する、ということ。弥生時代になると、土器で料理をするのが一般的な訳ですき、それには薪が必要やったでしょう。しかも大量に。
その燃料となる樹々は、近在のものを伐採し尽くしたら、山から運んで来んといかん。物部川の上流には、当時の感覚で言えば無限とも言える森林があったでしょうか。四国山地の山々で伐採した樹々を、物部川の水流を利用し、流して運んできた風景は、容易に想像できるではありませんか。燃料としての「山」の大切さは、今の我々では想像できんくらい重要やったかも知れません。
田村遺跡で発掘された竪穴式住居の数は、500棟を超えます。これは、あまり知られちょりませんが、全国最大規模。日本でも有数の集落が、ここにあったようです。集落が存在した期間が弥生初期から末期まで、と、こじゃんと長いせいもあります。そんな長期間、集落が維持できた要因の一つに、物部川の農耕への恵みと、燃料輸送手段としての恵みがあったがやないか。そんなことを突然考えました。
大河は、洪水ですべてを流し去ってしまうこともありますが、人間にとって命の流れでもありますね。
ところで、その流路が、歴史の流れとともに徐々に東へ移動してきたことに、何か理由はあるのでありましょうか。例えば地盤の隆起や沈降が要因とか。香長平野では、東部が徐々に沈降し、西部が徐々に隆起してきたので、流路が東へ移動していった、とか。
いかんいかん。地質学者さんに叱られてしまう、勝手極まりない妄想です。
ああ。
今朝も妄想が暴走する。