土佐の源氏、土佐の平家〔4012〕2014/04/10
2014年4月10日(木)晴れ!
数日前の冷え込んだ朝は、空もクッキリと晴れわたっちょりましたが、気温が高い今朝の青空には春霞。遠くの山々は霞んで見えます。夜明け前に見える星の数も、ちょっと少なめ。今朝は、野市、三宝山のてっぺんから高知市内方面を撮影してみました。霞んで見える香長平野。
左端に介良の鉢伏山が見えます。潮見台の左手。この三宝山からあの山にかけては、同じ地層帯。太平洋の彼方からゆっくり移動してきた珊瑚礁の山がメランジュとなり、盛り上がった山々。石灰岩の山。
その介良の山の麓に、源希義さんが流されてきて、住まわれました。
昨日、愛媛県の赤蔵ヶ池をご紹介しました。そう。源頼政と鵺伝説の残る赤蔵ヶ池。これは、中世になってから、源家の末裔土岐氏の所領になったことから生まれた伝説にかありません。
今朝は、土佐の源氏と平家について考えてみましょう。
源平合戦以前、土佐では源氏の勢力と平氏の勢力は入り乱れておりました。優勢であったのは平家。しかし、源氏ゆかりの荘園もあったにかありません。頼朝の弟にして義経の兄、希義くんが平治の乱の連座して流されてきたのは介良。そこには、伊豆、走湯山蜜厳院領の荘園がありました。たぶん、希義くんが流されてきた時には、もう、成立しちょったようです。
夜須には、石清水八幡宮領の夜須荘があり、源平合戦勃発の折には、夜須七郎行宗さんが支配しちょりました。
さて。
頼朝が伊豆で挙兵したのは寿永元年(1182年)。で、希義さんも呼応しようとしますが、当時の土佐はやはり平氏が強い。平家方の、蓮池家綱や平田俊遠などが、危険人物である源希義を討とうとします。
この写真。左の介良富士の向こう側の麓が、源希義くんの居館。そこを出た希義さんは、馬に乗って真ん中の高天原山のこちらを通って北東へ。途中、柏の木の所で休憩して湧き水を飲み、右端の年越山の右の先っぽへ。そして、そこで、平家軍に討たれてしまいました。
夜須から救援に駆けつけよった七郎行宗は、このしゅっと眼下、野市の野々宮神社のところで、既に希義が討たれたことを知って慌てて退却、蓮池平田連合軍の追撃を逃れて夜須から船で紀州へと逃げて難を逃れたのであります。
この三宝山頂からは、その需要舞台をすべて見晴るかすことができます。
その後、壮絶な合戦が繰り広げられて源氏が勝利したのはご承知の通り。そして、遥かに霞んで見える四国の深い山々の間に、平家の落人は、逃げ込んだのでありました。各所に、それこそ各所の山々村々に、平家の落人伝説は今も残ります。
土佐の山中には、本当にたくさんの平家伝説があります。実際に、たくさんの平家方の武士や家族が逃げ込んできたのは間違いないようで、今の高知県人にはかなりの平家の血が流れちゅうのではないかと思われます。
数は少ないですが、源氏の関係者の伝説も、ぴっとだけあります。以前ご紹介した、兼光地蔵さんもその一つ。源平合戦初期、木曾義仲の武将、今井兼光さんが土佐に流れてきて活躍し、住み着いた伝説。旧鏡村の今井さんは、その末裔とされます。
悠久の時の流れを超えて、人の営みや事件は歴史となり、地域地域では伝説となって、残されてゆきます。昨日の鵺の伝説は、いったいどんな事実があって、伝説となっていったのでしょうか。