土佐神社前、古墳の天井石〔3998〕2014/03/27
2014年3月27日(木)晴れ!
なんという陽気でしょうか。風は強いですが、日差しはもう初夏。
昨日も、酪農家さんたち関連の会合で、宴会付き。夕方4時過ぎから飲み始め、夜中まで。ハードな日々が続きます。実は、明日も、別の酪農家さんたちとの会合。お昼1時から葉牡丹。明日に備え、今日はおりこうさんにしちょかんといけません。
今日は、お昼前に一宮に用事があったので、寄ってお参りしてきました。土佐神社。土佐國一宮で、日本書紀にも「秦忌寸石勝を遣して、弊を土左大神に奉る」とでてくる、古い古いお宮さん。土佐坐神社(とさにいますじんじゃ)とか土佐高賀茂大社とか高賀茂大明神とかとも呼ばれてきて、賀茂氏にゆかりのある神社であることはよく解ります。
続日本紀では、高鴨神である一言主神が雄略天皇と葛城山で問答し、怒った雄略天皇が一言主を土佐に流した、という話が紹介されちょります。都左の国造の祖先となって、土佐神社に祀られるようになった、という訳で、そんな話が中央の文献にでてくるくらい由緒のある土佐神社さん。
しかし、賀茂氏が土佐に勢力を持つ以前から、地域の大切な神様として尊崇されよったことは間違いないようです。
この界隈には、一宮古墳群というのがありました。そう。かつては、ありました。土佐神社の東西にあった二基の古墳で、東側の山麓にあったのが一号墳、西側の大塚にあったのが二号墳。
一号墳は、いつの間にか破壊され、痕跡も残っちょらんそうです。なかなか乱暴。そして二号墳。
明治20年、新道建設の為に破壊されました。一宮の、旧国道32号線。土佐神社の南側の道路建設。でですね、その横穴式石室の天井部分の三枚の巨岩を、鳥付川に架ける橋の橋材としました。その橋は太古橋と呼ばれるようになって現在に及ぶ、と、昭和59年平凡社発行の「高知県の地名」に記載されちょります。本日、探してみましたが、よう見付けませんでした。そもそも鳥付川がどれかわからんかったので。
また、その二号墳の石室の天井石の一つは、土佐神社楼門前の橋に使われた、ともあります。確かに楼門の前には橋もありますが、これは新しい。この橋が架けられる時にどうしたのでありましょうか。更に、もう一つ天井石があって、それは楼門前の石碑として使われちゅう、とのこと。
さて。今日、その楼門前に行ってみました。写真右端、土佐國一ノ宮と刻まれた銘版が埋まっちゅう巨岩。これが、一宮古墳群二号墳の天井石。
横に、その巨岩のことを説明した柱が立っちょりました。
それによりますれば。明治20年に、道路工事が行われる事になった場所の「塚石」の一つを、ここの一宮橋に使用して架けたが、大正三年、鉄筋コンクリートの橋に架け替える際に廃石となり、この場所にそのまま置かれちょったそうです。それを、昭和47年に、このように碑として使うようになった、とありました。
どちらにしましても、この巨岩、古墳の一部であることは間違いありません。「塚石」との表現だけですと、古墳の構成石とは思いませんよね。ですきに、この巨岩を見た人々も、道路工事で撤去された古墳の天井石であるとは思わんでしょう。
大塚という地名が残るくらいですき、なかなか立派な古墳があったことでしょう。一宮は、古墳の地でもありました。
古墳時代、この土佐神社の場所では、どんな神様が祀られておったでしょう。その古墳に葬られた人物は、このしなね川界隈で行われよった祭祀に深く関係しちょったでしょうか。その後、賀茂氏系の人々がやって来て、権力を持つようになったでしょうか。土着の神に変わって、賀茂氏の神様が祀られるようになったでしょうか。古墳は、祭祀されることもなくなり、静かに永い永い眠りを過ごしたでしょうか。
明治20年、その永い永い眠りから起こされたでしょうか。そしてその石室の巨岩は橋などに使われたものの、時代の流れのなかで廃石となったのでしょうか。
この、土佐神社楼門前の巨岩を見て、そんな太古の昔に思いを馳せる人も居なくなりました。土佐神社以前の、古い古い信仰の痕跡です。