なぜ、唐人町がこの場所に形成されたのか〔3963〕2014/02/20
2014年2月20日(木)晴れ
昨日のにっこりで、忠臣蔵の真実について書かれた本の事を紹介しました。その著者は、建設省、国土交通省の土木の専門家やった方で、土木や気象の観点から街や歴史を見つめ直し、興味深い新説を色々と唱えておられます。今までの、人文学からの切り口だけではなく、土木工学や気象学から見た歴史。これは面白い。
その中で、江戸の、吉原遊郭移転の理由についての新説が紹介されちょりました。
江戸開府当初、日本橋の近くにあった吉原遊郭。幕府公認の遊郭で、社会秩序の中で、重要な役割を果たす遊郭。その吉原遊郭は、1657年の明暦大火、いわゆる振袖火事の後、現在地である日本堤に移転させられました。
明暦の大火は、それまでの江戸を焼き尽くしてしまいました。徳川幕府とその官僚たちがエラかったのは、その復興計画を策定するに当たり、後世までのことを見越した合理的で大掛かりな都市設計を施したこと。これは、もう、有名な話。その際に移転した吉原遊郭。
さて。
江戸の地形については、このにっこりでも何度かご紹介してきました。が、浅草については、今回初めて取り上げます。浅草。浅草寺は、1000年以上の歴史をもつ古い古いお寺。場所は、隅田川河口近くの湿地帯で、古くは海でもあった界隈ですが、1000年以上の歴史を持つとはどういうことか。それは、浅草界隈だけ、湿地帯の中の小高い中洲であった、という証拠。そう。浅草は、過去の度重なる大水害を生き残ってきた、小高い場所であった訳です。
ここに目をつけたのが徳川幕府。
暴れ川である隅田川の治水を考えたとき、とにかく、江戸城近くの低い土地に洪水をおこさせないことが最優先。日比谷は入り江を埋め立てた土地であることからわかるように、とにかく低湿地に武家屋敷がつくられたので。
で、まずは、隅田川が増水した場合、江戸の町へ水が来ないよう、東岸を溢れさせて遊水池とすることを考えた訳です。
1620年、各地の大名に命じて、浅草から三ノ輪の高台まで、高さ3m、幅8mの大きな堤防を構築させました。日本各地の大名が工事に携わったので「日本堤」。これで、堤の西側の武家屋敷はひとまず安心。
明暦大火の後、隅田川に橋を架け(両国橋)、橋の東側にも都市を拡大していきました。それによって、江戸は、世界一の大都市になる条件を得たとされます。そして、新しい、東岸の町も水から守らんといかんなって、熊谷街道の堤を大改修して墨田堤などを構築しました。
こっからが興味深い新説。
堤防は、メンテナンスが必須。植物が繁茂し、モグラや蛇が穴を掘ったら堤防は破損します。また、大水や地震での破損もあります。それをメンテナンスせんと、堤防はもたない。
そこで、賢い江戸幕府の役人が考えたのが、吉原遊郭の、日本堤への移転。これにより、夥しい人々が毎日毎日堤の上を歩くことになりました。踏み固められ、堤防は強固になります。何か堤防に異常が発生した場合も、通行人や吉原の住人がすぐ発見でき、しゅっと修復できるシステム。
東岸の堤も、向島に料亭街をつくるなどして繁華な街を形成、ヒトを歩かせて自動的にメンテナンスする、という仕組み。
この、土木専門家の著者の方は、これが江戸時代の、治水ソフトウェアのすごいところである、と考えたのでありました。なるほど。
そこでこの写真。
今朝の、高知市唐人町。天神大橋の上から、東の方向を撮影しました。唐人町は、長宗我部元親が朝鮮の役で朝鮮から連行してきた秋月城主、朴好仁の一族郎党を、山内時代になって、豆腐製造の特権を与えて住まわせたことに始まる、とされちょります。こないだ、朴好仁さんの息子さん、秋月長左衛門さんのお墓を探索に筆山に入って、右手薬指がヘチ向いたがは、記憶に新しいところ。
この唐人町。上の話から考えるに、ここに、城下の豆腐をまかなう街を形成し、この北側のお城下、郭中を守る堤のメンテナンスをやらせておったのではないか、という可能性がでてきました。
太古の昔から、古今東西、治水の原則は、重要な場所を洪水から守る、ということ。この、北岸の堤で郭中を守り、南岸の堤を低くして南側に洪水を溢れさせる。で、重要な北岸の堤は、税金などの特権を与えて住まわせた人々にメンテナンスさせる。う〜ん。合理的であるし、何故、この場所に住まわせたのかの理由が納得できてしまう。
これが唐人町形成の、土佐藩の目的であった、という説。
こうやって、土木工学的見地から、歴史を眺めてみるのは、しばらく、マイブームになりそうな気配です。
ちなみに、このネタ本は、元建設官僚の竹村公太郎さん著、PHP文庫「日本史の謎は地形で解ける」でございます。