秋月長左衛門さんと唐人町〔3932〕2014/01/20
2014年1月20日(月)薄曇り
今朝、4時過ぎ。鏡川、潮江橋の上から西の方向を撮影しました。川面に街灯りが映って美しゅうございます。川の向こうには筆山の影。
この右手の土手の上は唐人町。由来につきましては何度も書いてきました。で、その街を支配した秋月氏の初代、秋月長左衛門さんのお墓が、あの筆山にある、ということで、昨年末にたつくりに行きまして、右手薬指がヘチ向いたがはご承知の通り。
長宗我部元親さんが、秀吉の命令で文禄の役に参加したのは1592年。そして、慶尚道、秋月城を攻め、降伏させて、城主の朴好仁さん以下、一族郎党二百十数名を土佐に連行してきました。浦戸城下に住まわせた訳ですが、好仁さんの長男、朴好赫くん(12)は、元親の小性になりました。日本名、長次郎を与えられたと言います。
その後、関ヶ原で改易された盛親について京へ上ったとか、色んな説がありますが、皆山集では、次のようになっちょります。
城主の朴好仁さんは、朝鮮通信使とともに帰国。長次郎くんは土佐に残り、土佐に入国してきた山内氏に仕えます。長次郎改め長左衛門。で、この写真の右手の、潮江川北岸に一族郎党と共に移ってきました。ここで、税金などを免除された上、豆腐製造販売の専売権を与えられたとされます。専売権を与えられた豆腐屋は68座、とされます。それまで土佐では、大豆を使用した豆腐製造が行われておらんかったようで、これによって、少し固めの朝鮮風豆腐が土佐に定着するようになったとか。
そして、その特権は幕末まで保証され、維新後になっても、この土手上にはたくさんの豆腐屋さんが立ち並んだまま、それは太平洋戦争の頃まで続いたという話があります。朝鮮から連行され、豆腐製造の特権を与えられた皆さんが住んだので唐人町。
その68座を支配した秋月家の墓所が、あの筆山の中腹にありました。既に、お参りされる方もほとんど絶えたようですが、稀に、お参りされゆう様子でもありました。墓石は破損しちゅうものも多く、どの墓石が長左衛門さんのものかは特定できませんでした。
秀吉の、トチ狂ったような朝鮮出兵の犠牲となり、連行されてきた一族。しかし土佐に根付き、数百年、高知の城下になくてはならない存在として生き続けてきた人たち。
人類は、過ちを時間が押し流し、また、新たな歴史を刻んでいくことの繰り返し。そんな歴史が流れた唐人町も、今は静かな住宅街となって、鏡河畔に静かにたたずみます。