冬の日本海は霙でした〔3929〕2014/01/17
2014年1月17日(金)冬の日本海を知っていますか?
仕事と移動で時間的カツカツ出張2日目。昨日、松山で業界の寄り合いを済ませ、高速バスに飛び乗って岡山へ。そしてJR伯備線の特急やくもで、鳥取県米子市にやって来ました。昨夜は、米子で、お客様と一杯。松山から岡山までは、JR特急しおかぜよりも高速バスの方が速いがです。で、飲み会に間に合いました。松山から汽車に乗っちょったら間に合いませんでした。
で、今朝は5時から早朝RUN。冬の日本海を見たかったので、米子駅前から皆生温泉往復RUN、11km。お天気は雨。そう。気温がちょっと高めやったので、雨でした。しかしさすがに山陰。冷たい雨が、しっかりとした雨脚で降り続けました。雪と思うちょりましたき、雨は予想外。5時から6時の間は本降りで、かなり降りましたのでびっしょりと濡れそぼってしまいました。まあ、走りゆう間は暑いくらいで問題ありません。雨の中を走るがは基本的に好きですき。
しかし、皆生温泉に到着し、暗い海岸に降りていって写真撮影を始めたあたりで、雨は霙に。みぞれ。これは冷やい。びっしょり濡れた身体が冷え始めたところに降る霙は、効きます。おうの冷やい。濡れた軍手が氷のように手を包み、痺れてきました。そんな状況で撮影したががこの写真でございます。
海岸の沖に離岸堤がありまして、その内側ですき波は静か。しかし霙降る冬の日本海は、やっぱし格別に冷ようございました。誰も居ない真っ暗な海岸を海の方へ歩いておりますと、冷たい海に引き込まれて行きそうな感じになってきますな。海岸のホテルから知らんヒトがこの私を見たら、ヤバイ人と思うたかも知れません。霙が降りしきる真っ暗な海岸を、濡れそぼりながら海の方へ歩いていく男。
それはともかく離岸堤。
米子から境港の方に延びる半島は、昔から、実にダイナミックな地形の変化を経てきちょります。近世で言えば、藩政期初期から大正にかけて、この東に流れ込む日野川の上流で「かんな流し(砂鉄の採集)」が行われ、それによって大量の土砂が流れてきて堆積、ここの海岸はどんどんと広がりました。明治期には浜辺が1年に2m増えた、と、この海岸に建てられた説明板に書いちゃありました。すごい。しかし、砂鉄採集が行われんなり、今度は逆に海岸浸食が劇的に進んだそうです。なんと、この界隈では海岸線が300mも後退したと書かれちょります。300mと言いますと、とっと沖。風景変わりますねえ。
そこで戦後、浸食対策が講じられましたが、一番効果があったがが離岸堤ながやそうです。沖に離岸堤を築くことで、海岸と離岸堤の間に土砂が「トンボリ効果」によって堆積するようになり、浜が広がって現在の姿になったとか。なるほど。
その離岸堤のおかげでできた浜で、冬の日本海を眺めてきました。
帰りは、また霙が雨になりましたが、冷えきった手足は冷えたまんまで冷やい冷やい。雨なので、道路に水溜まりができちょります。そこにぞぶってしまうと、氷のような水が足にまとわりついてきて、痛い痛い。そんな皆生街道を米子まで走って帰って来た、冬の山陰でした。