昭和の公園〔3925〕2014/01/13
2014年1月13日(月)薄曇り
そんな訳で、昨日の楽しかったこと。同級生とお気楽に過ごす、ああいった時間はホントに宝物ですね。雪の梶ヶ森は美しく、新雪にモブレもって急な山道を登るがも楽しいですが、九年目にして発覚した衝撃の事実などなど、とにかく盛りだくさんでお腹いっぱい。高校の同級生に会うと、瞬時にしてタイムトリップし、会話内容や関係が昔に戻ったりするがが面白過ぎます。
今日は色々と忙しいので、休日ですけんど、たつくりに出れません。そこで、買い物ついでに、自転車でちょこっと寄った公園を撮影してきました。若松町児童遊園というにかありませんが、実に昭和な公園。
高知市内には、昔から、たくさんの公園があります。例えば、弊社の旧本社の北側の松渕川公園。小生、子供の頃のホームグランド。この公園で繰り広げられた数々のドラマは、今も忘れられない思いでとなって脳裏に刻み付けられちょります。
今も公園はちゃんとありますが、遊具は、すっかり変わってしまいました。
北西隅に砂場があり、その東にあったコンクリート製の汽車ぽっぽ。コンクリートでできた、大きな土管を連ねたような遊具。小学校1年生か2年生の、お誕生日やったと思います。家で友達と遊び、家の前の松渕川公園に移動してそばえよった時、事件は起こりました。
土管の中のような汽車の中で追いかけっこをしよって、足を滑らせたのは私。次の車両?の下部、コンクリートの角に額から突っ込んで、流血。大泣きしたのは言うまでもありません。しゅっと近くの竹下病院で、5針縫いました。
あの当時の遊具は、子供の安全とかには考慮しちょりませんき、今考えると結構危険でした。公園南側の公衆便所はきたなくて、利用するのも憚られるような代物でした。
あの松渕川公園がきれいに改修されたのは、いつ頃のことやったでしょう。公園デザインのワークショップみたいなががありましたね、確か。当時、市民参加の町づくりとかいうのが流行り始めた時代。
その新しい公園のデザインを検討する前に、トイレだけはできちょったと記憶します。今もある、立派な公衆便所。公園の、その他の風景に比してあまりに立派なので、不釣り合いである、と評判であった立派なトイレ。
そして、その後、その他の遊具なども、以前の面影、イメージを残しつつ、構築されて今の形になりました。
たぶん、高知市内のあちこちの公園は、方法手順はどうであれ、トイレがきれいになり、遊具が整備され、開放的でこぎれいで安全な姿に生まれ変わっていったと思われます。
しかしここ、若松町。青柳橋の西詰から、北に向こうて広がる公園。ここには、昔の公園そのまんまの風景が残ります。
ここは、元来湿地帯。明治期の地図を見ても、浦戸湾の一部を形成するような湿地帯。そこに、土地を築き上げて稲荷新地ができたり、繁華街ができたりしました。基本的に、浦戸湾に浮かぶような町でした。
今は、そんなことはなかったように埋め立てられ、住宅、マンションなどが立ち並びます。しかし、この公園の北側とかには、今も池や水路がたくさんあって、昔、湿地帯であったことをうかがわせます。
この公園も、右手の公衆便所の壁に貼られちゅうように海抜-0.3m。ここも、浦戸湾でした。
この東に土手ができ、土手の内側になってからも、湿地として残った土地ながでしょう。
そこに、公園がつくられたのはいつの頃でしょうか。ここから北に向かい、湿地の名残の水路や池と公園が続きます。
しかしこの公園。昔のまんま。公衆便所の姿がそのまんま。さすがに、便器は新しゅうなっちょりました。
水道も昔のまま。滑り台やシーソーも、たぶん、我々が子供の頃からそのまんまと思われるようなレトロな代物。
高知市の管理ではないのかも知れません。公園の雑草は生え放題で。独特の雰囲気があります。こんな公園、今は見かけんなりました。
近所で、数少なくなった昭和を味わえる、貴重な公園です。