薬指がヘチ向く〔3895〕2013/12/14
2013年12月14日(土)晴れ!
しかしビックリしました。ホントに驚きました。
今朝は、結構冷えましたですね。で、午前中時間をつくりまして、朝7時前から筆山〜南嶺RUNに出かけたのであります。
こないだ、戦争の終結に重要な役割を果たした近衛第一師団長、森赳中将の墓所探査のことを書きました。すると、昔、「土佐史談」に、筆山一帯の夥しい墓地を地図に落とし込んだものがある、と、史談会会員の島崎さんが教えて下さり、その地図のコピーまでして下さいました。本当にありがとうございます。
そんな訳で、その地図を見ると、森中将の墓所だけでなく、他にもたくさん探査したいお墓がありましたので、今朝、筆山の登り口まで走って行って、山中に分け入りました。
まずは、織田一族で、織田信長に滅ぼされた若宮織田家の織田信賢さん。その父の信安さんに山内一豊の父、盛豊さんが仕えた縁で、一豊が土佐に呼び寄せて厚遇した、とされる方の墓所。古い。同じ墓所に、山内一豊土佐入国に際して掛川からやってきて、真如寺を開いた在川和尚さんの墓石も。ここは、以前にもお参りしたことがありました。
さて。
そっから、道もなく、荒れ果てた山中に点在する墓石の間を薮を漕いで分け入っていきました。目当ては、秋月長左衛門さんの墓所。土佐の豆腐製造販売の元祖。
お父さんは、朝鮮、秋月城主の朴好仁さん。秀吉の朝鮮出兵に同行した長宗我部元親が、朝鮮から一族を連行してきました。
その後、好仁さんは朝鮮へ帰りましたが、息子さんは秋月を名乗り土佐に住みついた訳です。山内氏入国後は、鏡川北岸で、豆腐製造の特権を与えられたということ。つい最近、戦争前まで、鏡川北岸は豆腐屋さんがたくさん並んじょりましたが、それは、秋月長左衛門さんに始まるのでありました。で、唐人町の町名の由来にもなった人物。
そのお墓がその界隈にあるというので、急な斜面を、薮を漕いて下りよりました。したところが。
足を乗せた石が突然崩れ、体は斜面をズリ落ちます。右手で、その辺の地面を掴もうとしよった記憶はあります。
そして。止まってから、右手を見たら。
ビビリました。ビビディバビディブウ。
右手薬指が、有り得ない方向に曲がっちゅうではありませんか。軍手をはめちゅうがですが、その、薬指のところがヘチ向いちゅう。絶対に有り得ない角度に曲がって。パニック状態になり、左手で触ってみるとブラブラしゆう。思わず、松田優作のように「なんぢゃこりゃあ」と叫んでしまいました。指が取れたみたいに見えました。で、左手で抑えゆううちに、パキっと音がして、あるべき方向に指が戻りました。冷静に考えると、脱臼しちょったにかあらん。
しかし痛いので、急いで山を下りました。病院へ行こう!
しかしまだ7時半。病院は開いてない。そのうちに痛みも引いてきたので、これは何とかなるかもと思い、喫茶店に入って休息。9時前に、天神橋北のさんさんクリニックさんへ行ったのであります。ここの整形外科医のKくんは、高校の同級生。
どうしたで?という質問に、経緯を説明して指を見せたら、「そりゃあやばいで。折れちゅうと思う」とのこと。観念してレントゲンを撮りました。
すると。
どうやら骨が欠けたりはしてない。靭帯はもちろん損傷しちゅうので、3週間くらいは動かさんと置いちょかんといかんけんど、という見立て。良かった〜。
「手術せんといかんかと思いよった」という感想ですき、危ないところでした。
あんなになったがは初めてで、あらぬ方向を向いた指を見たらビビリますよ、ホント。
そんな訳で、指のところに小さい板を当てて、包帯を巻いて頂きました。治療も済んだので、今一度筆山。また、山中へ分け入って、秋月さんの墓所の探査再開。
秋月家の墓所は、なんとかわかりました。墓石も割れたり倒れたりして荒れ果てちゅうので、どれが長左衛門さんのものか、特定はできませんでしたが。
お線香をあげてお参りし、次の目的地へ。
それは、奥宮正明さんのお墓。このにっこりでも何度もご紹介した、宝永南海地震津波の被災状況を克明に記した谷陵記を書いた人物。その他、土佐国蠧簡集など、重要著作もたくさんあります。享保11年(1726年)に、48歳で亡くなっちょります。
いや、その、奥宮正明さんのお墓、いつも通る車道沿いにあったことがわかったがです。筆山文化会館の下、車道が急カーブになっちゅうところ。道路からも見える場所。こんなところにこんな有名人のお墓があったとは、全然知りませんでした。迂闊。ビッシリ前を通りゆうのに。お線香をあげてきました。
そして、筆山文化会館の上の、百々家の墓所へ寄って、天王墓地から、こないだたつくった山中へ。今回の地図でも、やはり、その界隈に森中将のお墓があったことは間違いないと確認できたので、再度挑戦。
写真は、その途中のもの。右手の包帯が痛々しいっすね。
今日はかなりたつくりました。1時間近く。しかし、やはり、たどり着けませんでした。まだ、森中将も小生に会いたくないものと思われます。残念ですが、そこを離れました。
高見山頂まで一気に駆け上がり、北中山から神田へと下ってきた、冬の朝。しかしビックリしましたね〜。