古川八幡宮さん、文化五年の燈籠〔3873〕2013/11/22
2013年11月22日(金)晴れ!
今朝も快晴。寒いっすね〜。
昨日、八幡様のことを書きましたので、今朝も。
八幡様は、とにかく多い。毎朝お参りする、野市の上岡八幡宮さんが一番近所ですが、会社から北へいくと、こないだご紹介した福田八幡宮さん。上岡八幡宮から南進、旧吉川村役場のところには西徳善八幡宮さん。そっから東へ行った古川の、その名も八幡山の上に古川八幡宮さん。そっから東へ行った赤岡には昨日の須留田八幡宮さん。八幡宮さんだらけ。
写真は、その中の一社、古川八幡宮さん参道入り口。こっから石段を登った、八幡山の山頂に鎮座まします。
この八幡様、社殿の改築を平成10年にやっちょりまして、その際に立派な由緒書きの碑が建てられちょります。それを読みますれば、御祭神はもちろん応神天皇。一緒に、大山祇神社、天手力男神社、厳島神社、衝伝神社も祀られちゅうとあります。古くからの古川村の産土神。
戦国期、香宗我部氏居城の鬼門にあったので、香宗我部氏にことのほか尊崇されたとあります。元々は、京都の石清水八幡宮さんからの勧請。
写真の右端に写っちゅう燈籠。刻まれた年号を見ると文化五年。1808年。今から205年前にご寄進の燈籠。上岡八幡宮さんで一番古い燈籠が文化9年ですき、それよりも4年古い燈籠。間宮林蔵が樺太探検をして、間宮海峡を発見した年ですな。
八幡様がこんなにも広がりを見せたのは、武士の時代であることは間違いないでしょう。武運を祈る神様でもありますき。南無八幡大菩薩、と唱える場面、映画とかで観たことありますね。そう。八幡様は、はやくから神仏習合で、崇め奉られてきたのであります。
お城、砦を築き、その鬼門、裏鬼門に八幡様、というのは、非常に多いパターン。高知でも、石立八幡宮さんは高知城の裏鬼門というのは有名な話。そういった感じで、広がっていったがでしょうか。
かつて、お城があった場所には、城がなくなった後に城八幡が鎮座するケースが非常に多い。上記の、福田八幡宮さんもその例。岩村土居城の城址に鎮座する城八幡。
高知市大津の大津城址には、その名も古城八幡宮さんが祀られちょります。
さて。
ここは古川。旧吉川村は、古川村と吉原村が明治22年に合併してできた村。
吉原から県道を東進して古川を抜けると、途中左手、三叉路の角に、「村田忠三郎先生」と刻まれた碑が立っちゅうがをご覧になったことがある方も多いでしょう。「維新勤王之烈士 贈従四位 村田忠三郎先生」。
土佐勤王党員で、山内容堂の警護をしたりしよって、武市半平太らと一緒に捕縛され、投獄。藩吏井上佐一郎殺害の罪を問われて慶応元年斬首。
明治になって、名誉が復され、従四位が贈られた維新の志士。
村田忠三郎さんのご先祖は、長宗我部地検帳面に、名前が載っちょります。このしゅっと近所。たぶん最初は香宗我部氏、後に長宗我部氏の家臣であったと思われます。長宗我部遺臣ですき、山内の時代には郷士。で、幕末になり、勤王党に加わっていったという流れが想像できます。
写真の向こう側は、海岸部。ここ、八幡山も、間違いなく、太古の昔から、地震津波の際の命山であったでしょう。この文化年間の燈籠は、この眼の前の風景を壊滅させた宝永南海地震津波は目撃しちょりません。安政津波は、宝永ほどではありませんでした。次の南海地震では、この眼の前の風景がどうなってしまうのか。この八幡山は、また、命山になるかも知れません。