高知工業、早稲田、コマツ、竹内明太郎さん〔3848〕2013/10/28
2013年10月28日(月)良いお天気
ねんりんピックが始まって、ちくと寒いものの、良いお天気が続きます。良かった良かった。
で、県内、選手団送迎用の大方バスで溢れちょります。もう、あちらもこちらも大型バス。競技で頑張り、そして、ゆっくりじっくりまったり高知を楽しんでいってもらいたいもんです。
さて。ここは、今朝の高知工業高校正面玄関前。
こないだ、新聞に、コマツの前身になる鉱山の、産業遺産の記事が載っちょりました。石川県の遊泉寺銅山。その銅山の施設は、今、森の中にたくさん残っちゅうという記事。
その鉱山を開発したのは、竹内明太郎さん。ご存知、竹内綱の長男にして、吉田茂の実の兄。吉田茂くんは、竹内家の五男やった訳です。
自由民権運動、そして鉱山開発で活躍する父、綱と一緒に、日本の工業化に情熱を燃やした明太郎さん。
鉱山開発の一環で、石川県の遊泉寺銅山の開発を始めたのが1894年。明治27年。日清戦争が始まった年。国にとっても鉱山の開発と工業化は喫緊の課題でした。で、その際、その銅山で使用する産業機械をつくる会社も創って小松鉄工所と名付けました。それが、小松製作所となり、現在の、世界のコマツとなった訳で、創業者は高知県出身の竹内明太郎さんなのでありました。
で、地元高知の将来を考え、父と一緒に資金を出して、「私立高知工業学校」を設立したのは明治45年。私立ですきんね、私立。そして、大正期になって高知県立に移管、高知県立高知工業学校となりました。当時は、永国寺町。で、戦争中の昭和17年に、現在の桟橋通に移転してきました。
この、竹内明太郎さんの胸像の初代は、昭和6年、龍馬像で有名な本山白雲さんの作で、作られました。しかし、戦争で供出。昭和29年、再建されたのがこの胸像。
植え込みを挟んで、お父さんの綱さんと対になっちょります。
さて。明太郎さん。同じく鉱山を開発した唐津の地に、私費と投じて工業大学を創ろうと考えました。で、資金の準備から教授陣を集める事まで、開設準備を進めますが頓挫。そこに、早稲田大学が理工学部をつくりたがっちゅう、という話が出て、その、資金や教授陣をそっくりそのまま早稲田大学理工学部創設に提供しました。
当初の教授陣の給与まで、私費で払いよったという、まあ、早稲田大学理工学部を事実上創設したのも竹内明太郎さん。
早稲田は、建学の母が小野梓さん。彼も高知の宿毛の出身で、理工学部をつくったのも宿毛出身の竹内明太郎さんやったことになります。早稲田と宿毛。こじゃんと濃い縁。
ここ、高知工業高校の正面玄関前に鎮座まします竹内明太郎さんの功績を、工業高校の生徒さんたちも、キチンと学び、役立ててみたいたいと切に願うところです。
全然関係ないですが、小生、生まれた時に、いくつか名前の候補があったそうです。ひとつは「よしぞう」さん。これは、姓名判断で出された名前やそうですが、名字とつなげたゴロが素敵過ぎますな〜。
で、亡き父が考えたのが二つ。一つは、今の名前。もう一つは、父から漢字を頂いて明太郎やったと聞きます。ちょっと、かなり、立派な名前になるところでした。