イチゴのハウスの国庁跡〔3835〕2013/10/15
2013年10月15日(火)曇っちょります
また、台風が来よります。進路と勢力が気になります。とっと東へ抜けてもろうたら有り難いですな。
昨夜、高知県立歴史民俗資料館の前館長、宅間先生とご一緒でした。元々高校の社会の先生ですが、その郷土の歴史への造詣は深く深く、古くから県内各所の発掘にも携わってこられた先生。なによりお話が上手で、聴く者の心を惹きつけるものがあります。目標にしたい偉大な先生。
で、飲みながら色々とお話を聴きましたが、その中に国分の国庁跡の話が出て参りました。そう。古代、紀貫之も執務したとされる土佐の国庁。ここであろう、という場所は特定されちゅうものの、未だ、発掘での証拠は出て来ちょらん、という国庁跡。
何故、場所が特定されちゅうかと申しますれば、長宗我部地検帳などで、小字(ホノギ)名が正確に残っちゅうき。昨夜は先生が界隈のホノギ名を記した地図を持って来られちょったので、よう解りました。
国分川の北岸、少し北へ入った場所に「国庁」というホノギ。これから言うて、間違いなく、ここに国庁があったがやないろうか、という話。地名は、よほどの事が無い限り移動しませんので。
「国庁」の南には「古屋土」と「国庁前」。その南、今は田んぼになっちゅう場所が「外河原」「前河原」。つまり、国庁は、国分川に割合近い場所にあったことになります。
そっから北へ行くと「南屋敷」「中屋敷」「本屋敷」に囲まれるように「内裏」。その、「内裏」の場所に、現在、紀貫之旧邸の碑が建ち、古今和歌集の里としてキレイに整備されちょります。
ただ、このホノギでわかるように、ホントに紀貫之が住みよった場所は、特定できちょりません。証拠の物件も出土しちょらんもんですき。
さて。写真は、「国庁」の地点。案内板が立っちょります。ビニールハウスの中ではイチゴが栽培されよりました。このハウスの下に、ひょっとしたら国庁の痕跡が残るがかも知れません。宅間先生、はやいこと発掘調査をしたい、と、子供の様におっしゃっておられました。
ただ、この界隈、古代の当時は今よりもっと起伏のある地形やったにかありません。それを、中世、平坦に均した形跡があり、ひょっとしたらその際、国庁の痕跡は消されてしもうちゅうかも知れない、ということでした。
ホノギ名がこれほどはっきり残っちゅう国庁跡は、余り例がないそうです。香川県、讃岐の国庁跡も、同じようにホノギ名が残る貴重な痕跡ですが、そこも、まだ、国庁跡の証拠は発見されちょらんそうです。が、どうやら、最近見つかった、という情報もあるようですな。ちくと悔しい。
南の、たぶん、国分川の川沿いに、市町が形成されちょりました。今も古市という地名が残ります。何で古市というかと申しますれば、戦国期、長宗我部氏によってこの西側になる岡豊の城下に市町が形成されたきでしょう。元々の市町は、古市町になった訳です。
岡豊の市が市町になり、その町割りの痕跡は今も残る、という話は以前にも書きました。
長宗我部元親さんが、本拠を岡豊から大高坂に移した際、岡豊の市町をそのまま大高坂の城下に移設し、今も、はりまや橋小学校の西側に「新市町」という町名が残っちょります。古市町から市町、そして新市町、という流れ。
それはともかく。
こののどかな田園地帯に役所や屋敷が並び、市場が形成され、政治経済の中心として賑やかやった時代の風景を想像することの楽しさよ。