土佐北街道の通行量〔3785〕2013/08/26
2013年8月26日(月)なんという涼しさ
突然、ビックリするくらい涼しゅうなった高知県地方。早朝、会社へ着いた4時半頃の気温は22℃。夜明けまでに、もっと下がったにかありません。雨も降ってめでたしめでたし。
昨日は、お昼過ぎまでかるぽーとで用事がありまして、それから飲みに出ました。8名の、気心の知れた老若男女。最初、ひろめ市場にしょうかとしましたけんど、とてつもなく満員。やめちょいて、お昼から飲みたい高知県人の王道、葉牡丹にしました。真っ昼間から、葉牡丹は満員。もちろん皆さん、飲酒。さすが高知県ですなあ。高知県人で良かったと思う瞬間です。
2時間、葉牡丹で飲っちょいて、飲み足らん面々は真っ赤な顔をして歩きながらひろめ市場へ。その時間になると、ちょっとだけヒトも減っちょったので、なんとか席を確保して、餃子やらキュウリやら手羽先やらの、ひろめ名物とビールと冷酒。まだ外は明るい。高知県人で良かったと思う瞬間。
で、ひろめ市場を6時過ぎに出て、普通の居酒屋へ移動。いったいこったい何時間飲みゆうのやら。高知県人で良かった、とつくづくしみじみ思いました。
それっぱあ飲んでも、今朝はキチンと早朝からお仕事。南国の本社でひと仕事済ませ、香川支店へ。早朝なので、川之江までは下道を走りました。大杉から立川、笹ヶ峰、馬立、新宮と抜ける県道5号線。朝7時前なので、大杉から新宮まで、1台の車にも出会いませんでした。静かな静かな県道。
ここは県境の、笹ヶ峰隧道の高知県側出口。ここに、「関連林道 川之江大豊線開通記念」と刻まれた記念碑が、樹々に隠れるように立てられちゅうことには、ほとんどの方は気付いちょらんと思います。
昭和42年に開通した県道。それまでは、徒歩でしか越えることができんかった土佐北街道。とは言え、江戸時代は参勤交代のルートにも使われた幹線道で、往来は結構あったがやないですろうか。
高速道路が開通し、大豊と川之江があっという間に行けるようになったので、この隧道を通る車も、劇的に減ったと思われます。
このルート、オオヤケの道として開かれたのは、延暦15年に遡るとか。796年。平安時代になったばっかし。それまで、畿内から土佐へやってくるオオヤケの道は、何と、四国の西岸をぐるっと廻ってくるルートやったと記憶しちょります。ですきに、ものすごい日数を要する、遠い遠い土佐でありました。
南海道に新道を、ということで、延暦15年に、伊予国山背駅(たぶん現在の馬立)から四国山脈を越えて土佐に抜ける道が開かれた訳です。土佐に入って最初の駅が丹治川駅。たじかわえき。この頃は、たじかわで、しに点々やったにかありません。
平安時代の延喜式には、丹治川駅に、馬が5頭、伝馬として置かれちょったとあります。
その後、北山越えと呼ばれる街道になり、土佐と外国を結ぶ幹線道路の一つとして発展しました。
で、立川と表記されるようになり、今でも読み方はたぢかわ。ちに点々。高知県人が得意な、ちに点々の発音の地名、立川。
今は、ホントに静かな県道になった北山越え。延暦の昔から言うて、ひょっとしたら、今が一番、ヒトの往来が少ないがかも知れん、と妄想してしまいました。旧土佐北街道は、このトンネルの遥か上を徒歩で越えて行く道でしたが、毎日、かなりの往来があったでしょうきんね。