鷲尾山頂、砲台、森中将と下村大将〔3776〕2013/08/17
2013年8月17日(土)晴れ!
今日はお昼から祝賀会に行かんといかんので、朝、走りに出ちょりました。南嶺。朝の風は涼しく、お日様の下やなかったら結構快適になってきました。炎暑も終わりに近づいてきたのでありましょうか。
筆山、高見山、そして鷲尾山と走りよりますと、森の中はセミの声。それも。ミンミンゼミの森もあれば、ツクツクボウシの森も。そう。ツクツクボウシが幅を利かせる季節になってきました。こんなに暑いというのに、ちゃんと季節は移ろうがに感心してしまいますな。
終戦の季節、ということで、今日は筆山の墓地を探索。筆山には、山内家をはじめ、たくさんのお墓。その中に、森赳(もりたけし)陸軍中将の墓所もあると聞きました。森中将は、高知出身。色んな軍歴を持ちますが、最後は近衞第一師団長でした。
昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾が決定され、翌日、天皇陛下自らの声で、発表することが決まりました。それを不服とする陸軍の一部士官達がクーデターを計画、実行しようとしたがが、いわゆる宮城事件。
陸軍至上主義で、始末の悪いことにそれが日本を救うことになると妄信していた若手士官たちが皇居を占領し、天皇を手元に置いてクーデターをしょうとした訳です。
実際、陸軍上層部にも、若手からの強行意見に押されてクーデターをおこそうという空気もあったのも事実。どう動くかわからなかった、微妙な時期。
反乱軍が、皇居を守る森近衛第一師団長の所に押し掛け、一緒にクーデターを起こすように説得。しかし、森中将は、断固拒否。それが、天皇や日本を逆に苦しめる事になる、と反乱軍を諭そうとしましたが、興奮している反乱軍は、森師団長に発砲した上で斬り殺しました。
反乱軍は偽の師団長命令をつくったりしてクーデターを進め、皇居に居た重臣達を拉致、終戦の詔を録音したレコード盤を奪おうとします。
結局、森師団長が殺されていることが発覚、偽命令であることも判り、東部軍によって鎮圧され、無事、8月15日を迎えることができたのは、ご承知の通り。
もし、森師団長がクーデターに対して断固たる態度を取らなかったら、実際、どうなっていたのかわかりません。命に替えて、日本の、一番望ましい終戦への道を歩ませてくれた人物とも言えます。そんな土佐人も居りました。
その墓所、結局、よう探しませんでした。なんでも、そのお人柄を示すがごとき、控えめなお墓にかありません。
日本陸軍の終末に当っては、2人の土佐人が、大きな役割を果たしちょります。一人はこの森中将。そして、終戦後、最後の陸軍大臣に就任し、陸軍解体の任に当たった下村定(しもむらさだむ)大将。陸軍のしでかしてきたことを国民に詫びる、という役回りを淡々とこなした下村大将も、地味で、実直な人物であったようです。
そんなことを考えながら筆山を駆け上り、高見山、そして鷲尾山へ。
写真は鷲尾山頂。この円形の部分が、高射砲の砲台があった場所とされます。ここに高射砲を据え、向こうから攻めて来る米軍に対抗する予定やったがでしょう。
沖縄でも硫黄島でもそうですが、米軍は、上陸してくる前に徹底した艦砲射撃を、山の姿を変えてしまうくらいやってきました。もし、ここに上陸してくるとしたら、この鷲尾山も、山容が変わるくらいの艦砲射撃の標的になっちょったでしょう。山頂付近には、壕のようなものが、今でも残されちょります。
子供の頃からビッシリ登って、山頂周辺で遊びましたので、壕みたいなのがどっさりあることは知っちょりました。
それが、戦争の痕跡であることを知ったのは、大人になってからです。