68年前の記憶と記録〔3731〕2013/07/03
2013年7月3日(水)小雨
明日は7月4日。明日の朝は出張で高知におりませんので、今日、書きます。68年前の7月4日の話。高知市民にとって、7月4日は、覚えちょかんといかん日。68年前の昭和20年7月4日未明、高知市一帯は、米軍のB29による大空種によって壊滅的に焼けてしまいました。いわゆる高知大空襲。
サイパンから飛んで来た125機のB29が、高知に焼夷弾を投下したのは、昭和20年7月4日午前1時52分から2時52分の1時間とされます。投下された焼夷弾はなんと1,061トン。死者、行方不明者が400名を超えたのは、ご承知の通り。市民は、防空壕や近くの川に逃げ込み、1時間の空襲に耐えました。
以前にも一度書きましたが、その高知大空襲の際、市内に1機のB29が墜落しちょります。もう、戦争もその時期になりますと、制空権は完全に米軍が握り、日本軍による迎撃態勢も壊滅に近かったので、そのB29は、日本軍によって撃墜されたものではない。戦後、米軍が入ってきて、色々と調査もしました。
市民の目撃証言では、飛行機同士が衝突して墜落した、といった話もありましたが、米軍の記録では、喪失機は1機だけ。日本軍の飛行機は出撃しちょりません。で、衝突ではないという結論。
その後、検証が進み、次のような推測が、結構有力になっちょります。
その、墜落したB29は、空襲の成果を記録するための飛行機であったと。で、低空で飛びながら市内の状況を偵察用カメラで撮影していて、上から落とされてきた別のB29の焼夷弾を被弾し、墜落炎上したという説。戦後になって判明した、死亡した搭乗員の中に、操縦や爆撃とは関係のない、地位の高い同乗者が居ったことも、その説を裏付ける有力な根拠になっちょります。
さて。そのB29が落ちたのは。以前、市内で眼鏡屋さんを営む芝藤さんに、B29が電車通りに墜落しちょったがを見た、という話を聞いたことがありました。市内に墜落しちょりますので、多くの証言が残っちょります。それによりますれば、墜落した機体の大部分は、高知市本丁1丁目電車通りにあったにかありません。現四国銀行上町支店の前辺り。
この写真の右手に写っちゅうのが四国銀行上町支店ですき、まさしく、この写真の風景の中で、墜落したB29が炎上した訳です。10日以上もくすぶりつづけた、という証言もあります。
尾翼の部分は、こっからはかなり離れた高知城梅の段に落ちた、とされます。空中で分解し、ここと高知城に落ちた訳です。
写真を見ればわかるように、ここは、龍馬生誕地の前。たくさんの観光客さんが訪れる、龍馬ファンの聖地。そのすぐ西。もう、68年も前になってしまいました。ここにB29が墜落したことを教えてくれた芝藤さんも、今は故人となり、当時のことを知る方も少なくなってきました。
戦争のことを、記憶として残し、伝えていくため、覚えちゅう方への聞き取りは急がんといかん時期になっております。
新聞への投稿などを読んでおりますと、やはり、戦争を体験しちゅう世代の皆さんの平和への思いは、特に強いものがあります。そのような思いを、風化させず、美化せず、正しく伝えて行く責務は、我々にあります。