上岡山に避難路が整備されるまで〔3681〕2013/05/14
2013年5月14日(火)快晴!
今日も良いお天気。暑うなるでしょう。クールビズ、増えましたねえ。弊社も今月からクールビズ。とは言え、お客様のところに行く際には、気を付けんといけません。今の時期は混在しちょりますきんね。
ここは野市。今朝、4時半頃の、いつもの上岡八幡宮さん。今の季節の4時半は、少し明るんでくる時間ですが、フラッシュを焚いて撮影したので夜みたいになりました。拝殿脇から、上岡の集落方面に下っていく道。今年、整備されました。南海地震に備えた避難路。完成したばっかし。
東日本大震災の後、地域の皆さんが話し合い、この、命山である上岡山に避難路をつくろう、ということになったそうです。高校のクラブの後輩が、上岡地区に住みゆうので、教えてくれました。
当初は、地域の皆さんによる手作りの避難路。これは、なかなか大変そうな作業でした。山の樹を切り倒し、間に合わせの重機と手作業。それでも、なんとか、ご高齢の方でも上れそうな感じの斜面が少しだけできよりました。
その手づくり避難路の作業が止まったので、あれで終わりかと思いよりました。ほいたところが、業者さんが入って、本格的な工事が始まったではありませんか。そして、この、山頂につながる立派な避難路が完成しました。てっぺんに小さなソーラーパネルが置かれ、それによって、避難路に夜でも灯りが灯るようになっちょります。
その、上岡在住の後輩に聞きました。
最初の、地域住民による手づくり避難路建設作業は、実は、必要かつ重要なものやったそうです。あのような、地域の、自らの頑張りや努力があったので、その後、予算が付いて本格的避難路が建設されるようになったとか。あの、地域独自の頑張りがなかったら、たぶん予算はつかんかったがやないろうか、との見解でした。なるほど。そういう仕組みか。ともあれ、この上岡山、命山としての機能を、今までに無いくらい充実させたと言えます。
ところでこの上岡地区、昭和17年までは、三島村大字物部に属しちょりました。つまり、物部川の西岸、物部の飛び地であった訳です。で、三島村が立田村、田村と合併して日章村になる際、上岡だけが分離されて野市町に編入されたのでありました。地理的に言えば、物部川東岸の野市町であった方がノウがエイ。
何故、この上岡が、飛び地であったのか。それはたぶん、昔、物部川の流路がもっとずっと西やったき。全部、最初は物部川の東岸にあったのが、流路が変わって、上岡だけが東岸に残された、ということでしょうか。
ですきに、この上岡八幡宮さんの氏子は、この上岡地区と物部川西岸の物部地区にまたがっちゅう訳です。ですきに、物部川西岸のひまわり乳業の氏神様も、ここ、鴨居か八幡宮さんになる訳です。ややこしいですが、そういうことです。
この八幡様の山の南側には、西へ、つまり物部川の方へと続く参道の痕跡が残ります。その参道の先は、川。昔、そこに渡しがあり、西岸の氏子の皆さんは、その渡し船に乗って氏神様たる上岡八幡宮さんにお参りに来よった、という話は、以前にも書きました。