日章園、菅公乳母、郷賢祠〔3642〕2013/04/05
2013年4月5日(金)晴れ!
良いお天気。今朝は高知。
以前にもご紹介したことがありますが、会社の近く、南国市立田の、立田公民館のところに、このような門柱が立ちます。日章園。
日章園は、昭和13年、地元出身の文学者、北村澤吉さんが、「この地域から多くの君子を育成する」という目的で設立した私学校。この門柱は、そのときのもので、この文字は北村博士の文字ということにかありません。
昭和17年、三島村、立田村、田村が海軍飛行場建設に伴うて合併させられ、その村に日章村という名前が付けられました。その由来は、この「日章園」。日章園があったので日章村になり、昭和31年まで、日章村でした。
今は、日章という名称は、日章小学校に残ります。また、我々より上の世代は、この界隈のことを今でも日章と呼びますし、高知空港は日章の飛行場ですし、ひまわり乳業南国工場は日章のコウバ。
で、前回来たときには気付かんかったがですが、この敷地の隅に、碑が建っちょりました。写真右端。公衆電話の右。
この碑には、日付もなにもない。ただ、ヒトの氏名がたくさん並び、右上に「郷賢祠合祀者方名」と刻まれるのみ。なるほど。
これは、郷賢祠。地域の賢人、偉人をお祀りする碑。そうか。日章園は、地域から賢人、偉人を輩出するための教育、交流施設。ですきに、その敷地に、地域の賢人偉人を祀る碑を建てたということか。さて、どなたが祀られちゅうろうか。
最初の人名を見て、その意外さにのけぞりました。なるほど。そう来たか。
一番最初に刻まれちゅうのは「菅公乳母」。こっから北へ行ったところにこぢんまりと天満宮さんが鎮座ましましちょります。菅原道真公が太宰府で失意のうちに薨去され、その遺愛の八重の白梅を、土佐に左遷されちょった道真公嫡男、菅原高視さんのところへ届けようとしたのが、高視さんの乳母。しかし、到着直前、この地でその乳母は亡くなってしましました。その乳母と白梅をお祀りしたのが、立田の天満宮とされます。
郷賢祠に、菅公乳母を刻んだ後、続くのは徳弘三郎右衛門さん。戦国期、山田氏の配下として活躍した武将で、現在の立田駅がある立田土居城を本拠としちょりました。山田氏滅亡後は長宗我部氏に従い、活躍。
その次が立田甚左衛門さん。同じく戦国期、立田神社の北方100mの立田城を本拠とした在地土豪で、長宗我部氏に従い活躍したにかありません。
そうそう、上の徳弘さんは、在地土豪ではなくて、菅原高視さんが土佐に左遷されてくるのに連座してやって来た一族。そうか。高視さんの乳母は、太宰府から、四国の山越えでやってきて、まずはここの、旧知の徳弘さんちに寄ったと類推できますな。で、そこで、無念にも亡くなってしまった。そして、徳弘さんがそれを悼み、お城の中に祀ったがかも知れません。
さて。この郷賢祠の名前はその後にもたくさん続きます。
日章園はなくなり、日章村もなくなり、日章飛行場もなくなってしまいましたが、南国市立日章小学校は、日章園の名を、今に留めております。そこで学んだ子達が、先人の想いを継いで、未来に向かって羽ばたいていくことを願います。