瀬戸大橋から与島を眺める〔3641〕2013/04/04
2013年4月4日(木)
昨日、車で通ったルートを、今朝は汽車で。瀬戸大橋は、汽車も渡れる巨大な橋です。
写真は、瀬戸大橋を渡る特急南風の車窓から、与島を眺めたもの。山の中腹に見える緑の屋根が、昨日の天津神社さん。
昨日、この与島について書きました。与島は、塩飽諸島の中にある島。西の、本島や広島などと比べても、非常に小さい島。現在の与島の地図を見ると、もう、サービスエリアの島、と言うたちかまんばあ、広大なスペースを高速道路の施設が占めちゅうががわかります。その横に、こぢんまりと居住エリア。
昨日の天津神社さんには、古い立派な燈籠や玉垣もあり、この島がかなり栄えたことを教えてくれます。橋の無い時代、どんな島やったのか、今では想像もできません。
太平洋側に住む我々には、瀬戸内海の島々の暮らしというのが想像もできません。なんとなく、瀬戸の花嫁のようなのんびりした風景が思い浮かびますが、実際の生活は厳しいものもあったでしょう。あの、民俗学の歩く巨人、宮本常一さんは、山口県の周防大島の出身で、島の暮らしをたくさん書き残してくれちょりますが、それを読むと、ホントに苦労に苦労を重ねながら生活をしてきた様子がわかります。
しかし、戦後になって少し生活も安定し、船などの便も良くなって、これから豊かな時代がくるかも知れない、などと思うたでしょうか。
宮本常一さんの文章では、苦しかった農民、漁民の暮らし、民俗を紹介しながら、いろんな便利な道具ができ、交通の便が良くなり、農村漁村でもやっとこれから良い暮らしができるようになるだろう、といったことが書かれちょります。そんなことを思うことができた時代でした。
その後、道具や交通は便利になりましたが、田舎の農村漁村は豊かになったのか。結局、交通の便が良くなると、皆、そこから出て行き、過疎化が進み、農村漁村から若者、子供が居なくなって疲弊していく。宮本常一さんが描いたような未来は訪れませんでした。
ここ与島は、まだ、漁村の島として成り立っておった、しかし、将来のことがちょっと不安になり始めた、そんな時代に、橋が架かりました。今迄の風景、環境が激変する訳で、そんなことは絶対に嫌なヒトも多かったでしょう。しかし、補償やら何やらで、目先は取り敢えず楽になる。色んな想いが交錯するなかでの、昨日の碑文になったのでありましょうか。
昨日も書きましたが、ぜひ、SAの駐車場に車を停めて、穴部とか浦城とかの集落の狭い小径を歩いてみてください。橋からはエンドレスの騒音。昔ながらの風景。橋が集落にもたらすもの。
なにげなしに、いつも、こうやって橋を通りよりますが、その陰で島の暮らしがどんな影響を受けちゅうのか。今までまったく知りませんでした。