迂闊にも・・〔3580〕2013/02/02
2013年2月2日(土)曇り後晴れ
迂闊でした。
痕跡研究家を自認しちょったひまわり太郎ですが、こんなに身近なところに、こんなにもハッキリクッキリした痕跡が残されちゅうことを、今まで、知らんかったのであります。これは、もう、反省するしかない。これからは、もっと謙虚に、研究と探索に精進して参りますので、アタタカイ目で見守って下さい。ユルイて下されば幸甚です。
ここは、ひまわり乳業のしゅっと北。その高架は、土佐くろしお鉄道ごめんなはり線。その向こうに見える建物群は、全部、ひまわり乳業でございます。そして、手前の。水路を渡る鉄橋の痕跡。これが、昭和49年まで走りよった、土佐電気鉄道安芸線の痕跡。
土佐くろしお鉄道の軌道と、土電安芸線の軌道は、重なったり離れたり。このしゅっと西の、県道を高架が渡るところまでは、今のごめんなはり線の軌道のところを土電安芸線が走りよりました。
思い出しました。そう。県道のところに、電車の踏切がありました。土電安芸線の線路は、その踏切から、ここを通って、弊社敷地の北端の、その北側を通過して物部川を渡りました。そうそう。
現在のごめんなはり線は、その少し南を通り、弊社の敷地を分断するように通過して、物部川を渡ります。ちょっと、南北にずれちゅう訳です。
安芸線の、後免町と手結の間が開業したがが大正13年。その頃は電化はされちょりませんが、ここを通っていたのは間違いない。駅については、色々と紆余曲折があったにかありません。
現在のごめん町の駅が後免。そこと、現JR後免駅との間もつながっちょって、JR後免は省後免。
さて。
後免(現ごめん町)から東へ行くと、永田駅。これは、戦争中に廃止になっちょります。安芸線には、結構、戦争中に廃止になった駅があるのであります。永田駅から東へ行くと立田駅で、現ごめんなはり線立田駅の場所。この駅も、戦争中に廃止になりましたが、戦後、復活しちょります。
そっから東へ行くと、逆に戦争中に開設された日章駅。もちろん、日章の、海軍航空隊飛行場に物資や人を輸送する為に、そこに駅がつくられた訳です。
その東には物部川駅。これも、戦時中に廃止。
結構、きめ細かく駅がつくられちょったがですね。駅間が、割合に短い。
そして、県道の踏切を過ぎると、ここ。
安芸線を走る汽車は、そんなに重量のあるものではなかったがでしょう。これっぱあの鉄骨で、橋がつくられちょりました。
戦後になり、昭和24年になって、ここは電化。昨年9月4日のにっこりに、そのことを書きました。
ここを、この橋を、客車を引いた汽車が、その後は電車が、走りよった風景。想像すると、楽しゅうなります。小生が中学生の頃まで、そんな風景がありました。
南国工場へは、父親の車でビッシリ来よりました。会社の北側を電車が走りゆうがは知っちょりましたが、あの頃、そんなに興味を持っちょらざったがが残念。
日章踏切を通る電車の姿が、懐かしく思い浮かんできます。