白太夫さんの伝説は、紀貫之さん出航の31年前〔3534〕2012/12/18
2012年12月18日(火)曇っちょります
今日もぬくい朝。昨日、走って帰っちょったので、今朝は自転車で出勤。14km。折りたたみの、タイヤがこんまい自転車ですき、まあまあ運動にはなります。今朝の出勤ルートは電車通りコース。
ここは大津。紀貫之さんが、土佐から京へ帰る際に出航した港のしゅっと東。そこの山裾、電車通りからちょっと上がった場所に、このお宮さんが鎮座ましまします。以前にもご紹介した「白太夫神社」さん。
紀貫之さんが土佐の国司やったのは、延長8年(930年)から承平4年(934年)頃。その年末に土佐を離れ、翌年、京へ到着するまでの日記が土佐日記。
瀬戸内海の治安は、かなり悪かったと思われますき、心配しながら帰っちょりますね。承平6年には藤原純友が瀬戸内海日振島で海賊の頭目になり、その後、承平天慶の乱が発生した、そんな時代。
その30年ばかし前。延喜3年(903年)に、九州、太宰府で、菅原道真公が失意のうちに亡くなっちょります。藤原時平との権力争いに破れ、陥れられて左遷された、その太宰府。何度かこのにっこりにも書いてきましたが、その左遷の際、嫡男の菅原高視さんは、土佐に左遷されました。土佐介。
太宰府で道真公が憤死しますと、その老僕、松本春彦さん、通称白太夫さんが、道真公の遺品を持って、土佐に住む嫡男、高視さんの所へやって来ようとします。伝説では御年79歳。
讃岐から、陸路、四国山地を越えて土佐にやって来たとされます。12月の雪深い四国山地を越えて。そしてここ、大津、岩崎の雲門寺まで来て投宿。しかし、その翌日、突然病没してしもうた、という話。
その、太宰府から持ってきた遺品は高視さんに渡され、それをお祀りしたがが潮江天満宮の始まり、ということになっちょります。
以前にも考察しましたが、ここは大津の港のしゅっと横。潮江、現在の高見山の麓に住む高視さんちまでは、こっから船で古浦戸湾を横切っていくががベスト。そのつもりで、港の横に投宿して、急逝したがかも知れません。
あの本殿の手前を右手に、山道を登っていくと、白太夫さんの墓所と伝えられる場所があります。
と、いうことは、紀貫之さんがここを出航した時代は、それから30年後ですき、まだ、白太夫さんが泊まった時と、同じ風景やった可能性が高い。白太夫さんの伝説は、その時には、もう、流布されちょったのでしょうか。
さて。この山の西端をちょっと登った場所に、古いお墓が並んだ墓所があります。そこには、明治維新の悲劇、堺事件で自刃した池上弥三吉さん、森本茂吉さんのお墓もあります。この事件で死刑が決定されたのは、責任者4名と、土佐稲荷神社でくじを引いて決めた16名の合計20名。結局、亡くなったフランス人と同じ数の11人が切腹したところで中止、終了。くじで切腹になっちょって、助かった土居八之助さんの墓所も、ここにあります。