海軍航空隊の機銃陣地、白菊特攻隊〔3388〕2012/07/25
2012年7月25日(水)晴れ
今日も暑い朝。夏の朝。
昨日の掩体壕に引き続き、今朝も、ここに戦争があった話。
太平洋戦争後期に現高知空港の場所につくられた海軍航空隊の飛行場と基地には、掩体壕の他にも、防空壕や機銃陣地など、たくさんの防御施設がつくられました。写真は、現在も残る、機銃陣地の跡。空港の東、物部川の土手に、夏草深く生い茂る中、静かにたたずみます。
こないだから参照しております「高知海軍航空隊 白菊特別攻撃隊」という本に、予科練を出てこの航空隊に配属になり、神風特攻隊に組み入れられ、沖縄の海に特攻していった若者の話が書かれております。その中で、偶然生き残った隊員の証言がたくさん取材されており、非常に貴重な資料となっています。
まだ特攻の訓練をここでやっていた昭和20年3月、米軍の艦載機が、初めて攻撃を仕掛けてきました。その時の模様が克明に描かれちょります。その文章を転載します。始まりはこんな場面。
「昭和20年3月19日午前4時45分、第二飛行隊の兵舎そばの練兵場附近で、戦闘ラッパがけたたましく鳴り響いた。」
これは、米軍機動部隊が北上してきていることを伝える日本軍の飛行機が飛来したことを伝えるもの。そして朝の7:30。
「右、足摺岬方面、高度2000、敵爆連合約300機、北に向かって進行中!
指揮所に集まっていた隊員に、整列の声がかかった。隊員は整列したものの、足摺岬方面が気になり、みんな目をそちらの方へ向けていた。遠くの空で、鳥の大群が移動しているように見えた。その集団が北東に進み、高知市上空に達した。爆音が微かに聞こえてきた。飛行機の動きが次第によく見えるようになった。まもなく、機影が判別できるところまで近づいてきた。グラマンの大群だ。誰かがその機数を数え始めた。百機、百二十機、百四十機・・・凄い数だ。」
そして攻撃は、このように始まりました。
「黒い熊蜂のような米軍のグラマン戦闘機四機が、約500mの高度で後免方面へ向かっていたと思った瞬間、敵の一番機がバンク、四機が縦一列になって基地の指揮所めがけて突っ込んできた。」
この基地を襲撃してきたグラマンは約50機。30分後に引き上げますが、第二次攻撃がやってくることはわかっちょりました。兵舎に戻ろうとしちょったI兵曹は、M分隊士に声をかけられ、第二次攻撃を機銃陣地で応戦するように指示されます。そして。
「突っ込んでくるグラマンに対し、銃眼を向けた時の緊張感は例えようがない。正に食うか食われるかだ。Iは、自分自身に気合いを入れるため、大声でバカヤロー!と怒鳴った。同時に引き金を引いた。連射をすると反動で銃身がぶれる。真上の敵機の前方を狙って撃っても、機銃弾が機体の後ろに流れていく。敵の機銃弾には、二発に一発くらい曳光弾が入っているらしく、弾道がよくわかる。二十ミリ機銃弾は五発に一発くらいだ。先に突っ込んできた敵機を狙っていると、すぐ次の敵機が後ろから突っ込んでくる。機銃の旋回が遅い。陣地の回りに積んである土嚢にブスッ、ブスッと敵弾が炸裂した。思わず機銃を撃つのを止めて首を引っ込めてしまう。敵弾の炸裂音が聞こえた時は無事なのだが、本能的に身をかばってしまうのだ。恐怖感で無防備になったらやられてしまうが、人間の行動はいつも理屈で割り切れるとは限らない。」
その日のグラマンは、第三次攻撃までやって来て、総数150機。
硫黄島が、ほぼ制圧されたのは3月17日。その翌々日の襲来で、米軍が、勢いに乗って日本本土へ攻撃目標を移してきたことがよくわかるタイミング。
この写真の機銃陣地、横に立つと、その高さは大人の胸くらい。意外と小さいものです。今は夏草の中。
67年前、ここにも戦争がありました。