朝倉城址から針木、そして春野、若尾瀾水さん〔3379〕2012/07/16
2012年7月16日(月)暑い!
今日の天気予報は曇りで、最高気温も27℃くらいになっちょりました。ところがどっこい晴れましたね、こりゃ。しかも湿度が極めて高い。濡れた大地に夏のお日様が照りつけ、ムンムンとした水蒸気が立ちこめる、そんな海の日。朝倉から春野界隈をたつくりまわってきました。暑かったです、ホント。
古い古い由緒をもつ朝倉神社にお参りした後、朝倉城の山を駆け上りました。今迄は、高知大学側、つまり、東側から車道を上り、途中から山道を詰の段まで、というルートでしか登ったことがありませんでしたが、今日は北から。朝倉神社参道入り口から少し伊野の方へ行くと、ひっそりと登り口がありました。山道ですけんど、この路、結構整備されちょって歩きやすうなっちょります。一気に詰の段まで駆け上がれました。
戦国後期、本山氏の本拠であった朝倉城の、正確な姿は再現されちょりません。が、たぶん、今日登った北側からが正面登り口になっちょったがやないろうかと思われます。真相は、今度、歴史民俗資料館の宅間館長に訊いちょきますね。
で、朝倉城の山のてっぺん、詰の段に久々に登りましたが、より一層鬱蒼としてきちょりまして、周囲の景色はまったく見えません。生い茂った木々に取り囲まれちょります。
実はあの場所、ひまわり太郎が土佐の歴史にのめりこむきっかけとなった場所。2003年11月30日にご紹介した時には、まだ、土佐の中原や岡豊方面が見晴らせました。その風景を見ながら、長宗我部元親に攻められ、城に火を放って逃げ落ちていく本山茂辰くん。その思いに、イマドキの表現を使えば、ひまわり太郎の心がシンクロしたのでありました。それ以来、土佐の歴史にハマっていったのでありました。
と、まあ、そんな思いをフツフツとさせながら国立病院の方に一旦下り、朝倉中学校から山の方へ。ぐるりと山の中の小さな農道を走ってしばらくいくと針木の浄水場。こんなところにつながっちょりました。
そこから駆け下り、今度は国道56号線の荒倉トンネルを抜けて春野へ。歴史の宝庫、春野。
今日はどこをたつくろうかと思いましたが、手近なところで、ここにしてみました。根木谷の観音堂。昨年10月9日にもご紹介した、かなり古い謂れをもつ観音さま。元文四年(1739年)の宝珠や、享保年間の灯籠など、かなりの歴史を感じさせてくれる幽玄な観音さま。その時にもご紹介しましたが、参道の石段をフウフウゼエゼエ登ったところに、若尾瀾水さんの句碑があります。写真が、その句碑。
これは、海と月を表現したオブジェ。月には、
ゆふ立や 蕗の葉かげに 蚊の迷
海には、
天
水難の 茄子畠や 秋の風
若尾瀾水さんは、この近所で生まれられ、京都の三高から仙台の二高に転校したあと東京帝大に進んだ秀才。そして正岡子規の門下に入り、俳人として活躍しました。
が、しかし。
若尾瀾水さんで有名なのは、正岡子規が亡くなった直後の立ち振る舞い。
子規逝去直後に「子規の死」という文章を書きました。その中で、子規のことを、
冷血、狭量、嫉妬、同党異閥、尊大裾傲、衒学
と表現、当時の俳壇に喧嘩を売りました。加えて子規の俳句について、
先生の諸作は、悉く前人の模倣に外ならざればなり
などと、まあ、すさまじい評論をしちょります。当時、正岡子規と言えば俳壇の巨人。
いや、瀾水さんも、子規の、認めるべきところは認めちゅうがです。その上で、誰も言えない批判をあえてあのタイミングでやったところに、彼のすさまじい矜持があったがかも知れません。予想通り、その後、俳壇から放逐された若尾瀾水さん。自分でもそれは予想しちょったでしょうか。
一人のいごっそうが、ここにも居ました。