被爆之碑に込められた思い〔3372〕2012/07/09
2012年7月9日(月)快晴!
晴れました。梅雨前線は南に下がり、真っ青な空が広がる月曜日の朝。暑うなりそうな月曜日。
さて、昨夜は、高知市営球場でナイターをやってきました。ナイター設備ができたがに伴い、始まった軟式野球の大会で、毎夜、1試合、ナイター照明の下で試合をおこないながらトーナメントを勝ち上がっていく仕組み。
でですね、小生の出身大学の高知校友会有志でこのたび結成されたチームが、昨夜、初めての公式戦を迎えたという訳です。若い、高校野球経験者におんちゃんが混じったチーム。ひまわり太郎はかなりのおんちゃんですき、人数が足っちゅう場合は一塁コーチャーズボックス担当。けんど、キチンとお揃いのユニホームに身を包み、心地良うございました。
このよさこいナイター、電光掲示板に選手の名前までキチンと表示されますし、ウグイス嬢によるアナウンス付き。これは、名前を呼ばれたら気持ちエイでしょうね。記念になります。
試合は、勝ちました。もちろん祝勝会もグッスリ。素敵な経験をさせてもらいました。
さてさて、写真は今朝の野市、上岡地区。いつもお参りする八幡様の少し東。地区の集落の真ん中に立つ「被爆之碑」をご紹介します。以前にも一度だけご紹介したことがあります。
先日、白菊部隊のところでも書いたように、現在の高知空港の場所に、昭和19年3月、海軍航空隊の飛行場がつくられました。偵察隊員養成の訓練のための飛行場。そこで育ち、神風特攻隊にしたてられて沖縄に出撃していった白菊部隊。そのことを書いた「白菊特別攻撃隊」という本に、その飛行場の様子が活き活きと記されております。
その飛行場を、米軍の艦載機が初めて攻撃してきたのは昭和20年3月19日。白菊部隊に特攻の命が下り、その訓練をしゆう時期。まず、7:30、50機のグラマンが襲来北上し、後免辺りで向きを変えて飛行場に銃撃をしてきました。第二次攻撃は10:00、第三次攻撃は12:30で、合計150機の攻撃でした。それに対し、このような機銃陣地で機銃を撃って応戦、13機を撃墜したとされます。
それを皮切りに、飛行場周辺への米軍の本格的な攻撃がはじまった訳です。ここ上岡地区は、海軍の飛行場が物部川の対岸にできなければ、攻撃目標となるような地域ではありませんでした。のどかな農村地帯。
ここに、B-29の大規模爆撃があったのは昭和20年5月3日。
上岡の地区民7名、地区外民1人、軍人2名死亡、家屋全半壊多数、という甚大な被害を被りました。その記憶を将来に伝え、平和を祈念する碑が、この被爆之碑。
平成7年8月15日、終戦記念日に、地区の皆さんによって建立されました。