浦戸湾と浦戸大橋と津波〔3371〕2012/07/08
2012年7月8日(日)晴れ!
夏。晴れました。青い夏空が広がる高知の海。ここは浦戸湾。中の島の突端から、南の方向を撮影してみました。
この突端で真下を見てみると濃い魚影。大きな黒い鯉が数十匹、浅瀬に置かれたテトラの間を泳ぎまわりよります。ここは堀川と鏡川が浦戸湾に流れ込むところで、川の真水と海の塩水が混じり合う場所。
しゅっとそこに見えるのは丸山台。明治の頃、温泉場、料亭があり、堀川から舟で行き来しよった島。板垣退助さんが岐阜で暴漢に襲われながらも無事に帰って来た際、歓迎の大懇親会をやったのもあの島。昭和の南海地震までは、今の倍くらいの広さがあったとされます。今でも、潮の引きが大きい時には、鏡川の南岸から歩いて島まで行けます。
偉大なる科学者にして文学者の寺田寅彦さんが指摘されたように、この浦戸湾には断層があり、湾を挟んで東と西は微妙にズレちゅうそうです。そして、一昨日うかがった高知大学理学部の0村特認教授が、この浦戸湾について、興味深いことをご教示くださいました。
昔、今よりも海水面が200m〜300mほど低かった時代。浦戸湾は、深い深い渓谷でした。四国山地から流れ込んでくる川が山の間に切れ込んだ渓谷になっておった訳です。写真をご覧下さい。あの、湾を挟む両側の山の高さはそのままに、200m〜300m、水面が下にあったということで、かなり深い渓谷であることがわかります。それから、海水面が上昇、長い年月をかけて土砂が堆積して、現在の浦戸湾の底を形成しちゅうということになります。
と、いうことは、つまり、浦戸湾の海の下には岩盤がない。ない、と申しますか、200m以上掘らんと、岩盤にいきつかん、ということ。そこで問題になるのが浦戸大橋。浦戸湾の入り口に架かる美しく大きな橋、浦戸大橋。あの橋の橋脚は、土砂に置かれたケーソンの上に立っちゅうだけながやそうです。強固な岩盤は200m以上下になるので、仕方なく、そういった工法を採用しちゅう訳です。つまり、ただ、砂の上に置かれちゅうだけの浦戸大橋。
種崎地区の、突端に近い場所のひとたちは、ひょっとしたら来るべき南海地震の際、津波から避難するのに浦戸大橋へ逃げようとするかも知れません。しかし、上記のような理由で、浦戸大橋が横からの衝撃にどこまで耐えられるのか、不安が残るのであります。
もし浦戸大橋が横倒しになったら。
更に大きな問題は、そうなった場合、浦戸湾の入り口を横倒しになった橋が塞いでしまうということ。湾内に、海上保安庁の大きな巡視船が係留されていますが、大地震と津波がきても出動できない、ということになってしまいます。更に、その大きな船が、津波で街の方に流されたら非常に大きな被害をもたらす懸念もあります。そんな訳で、海上保安庁の巡視船の係留場所を、湾の外の高知新港にする方向で検討しゆうそうです。
それにしましても浦戸大橋。専門家でも、地震と津波でいったいどうなるのか、予想できない橋。