大山祇神社、さまざまな楠〔3347〕2012/06/14
2012年6月14日(木)夏晴れ!
今日も良いお天気。梅雨入りしてから、梅雨らしい雨が降ったがは1日だけで、概ね良いお天気が続きます。今日も晴れて心地よいお天気。
そんなお天気の中、朝、高知を出まして松山へ。そして西瀬戸自動車道、通称「しまなみ海道」を通って本州へと向かいよります。瀬戸内海が真っ青。あまりにも美しすぎます。
さて、しまなみを通るのであれば、ここを素通りする訳にはいきません。大三島の大山祇神社。日本国中にある大山祇さんの総本社。その歴史はあまりにも古く由緒ありまくり。以前にもご紹介しました通り、神武東征の際、大山祇神の子孫の小千命(おちのみこと)さんが、その先駆けとなって伊予二名島で瀬戸内を治めちょって、ここ大三島に大山祇神をお祀りしたがに始まるとされちょります。神武東征伐ですきんね。そりゃあ古い。
で、境内には、その小千命さんお手植えの楠とされる巨木(樹齢2600年)がご神木として崇め奉られちゅうがはご承知の通り。そして境内には、もっと古い楠の巨木があります。それがこの写真。日本最古の楠とされるこの古木の推定樹齢は3000年。ホントとしたらすごい。
後冷泉天皇の頃、つまり今から900年以上前ですけんど、この楠はもう樹齢2000年。で、伊予国主藤原範国さんは、能因法師を使者にして祈雨の為にここに参拝させ、それによって伊予国中に三日三夜雨が降ったことから、この古木は「能因法師雨乞の楠」と呼ばれるようになったそうです。
この他、境内には様々な由緒の様々なものが祀られちょります。
拝殿の近くに、これも枯れた楠の巨木が横たえられちょりまして、それは「河野通有兜掛の楠」。
河野氏は、この神社ゆかりの越智氏の子孫。水軍として有名。
藤原純友征伐の時に、もう既に活躍しちゅう古い氏族で、源平合戦の際に義経を助けた河野通信さんがこじゃんと有名。しかし、鎌倉時代、承久の変に際して一族が別れて戦い、所領をほとんど失いました。幕府方についちょった河野通久さん一族だけかろうじて生き残りましたが、ほぼ、滅亡。
その通久さんの孫が、ここで兜を楠に掛けたという河野通有くん。蒙古襲来の際に、大山祇神社で楠に兜を掛けて必勝祈願をし、大怪我をしながらも九州の北の海で大活躍、中興の祖となったのでありました。そして河野氏は伊予、瀬戸内海に勢力を張り、中世、戦国期まで隆盛を見せたのであります。戦国後期、四国制定を目前にした長宗我部元親さんの前に立ちはだかったのも、その河野氏。結局、元親さん、河野氏を完全に屈服させる前に秀吉にやられてしまい、四国完全制覇はならんかったといわれます。そんな河野氏。
ちなみに、その河野通有くんのおじいさんの河野通久さんの弟に、河野通広さんという人物がおります。出家しちょったので、承久の変のとばっちりは食わんかったにかありません。その通広さんの息子が、時宗開祖の一遍上人。
没落した有力一族の子弟やった青年が、庶民に広く尊崇されることになった時宗の開祖である、という訳です。
今日は、あまりにも深い歴史をもつ大山祇さんですき、歴史の込み入った話になってしまいました。読みづろうて申し訳ございません。歴史は、あっちでもこっちでもつながっちょって、複雑に絡み合うきに面白かったりするのであります。