表裏入れ替わった丸亀城〔3318〕2012/05/16
2012年5月16日(水)晴れ!
今朝は丸亀。香川県の丸亀。昨日、高松へ仕事で来ちょりまして、丸亀で飲んで泊まっちょりました。で、朝は、いつものように、丸亀城を駆け上がって来ました。
このお城は、何度もご紹介したように、石垣の美しさが際立ちます。標高66mの亀山のてっぺんに、小振りではありますが均整のとれた美しい天守閣が乗っかります。
実はこのお城、正面と裏側がひっくり返った歴史を持ちます。
慶長7年(1602年)、高松城の支城として生駒氏が築いたがに始まる丸亀城。ですけんど、一国一城令によって廃城となってしまいました。その後、生駒氏のお家騒動の後、肥後から山崎氏がやって来て丸亀藩五万石が成立、城の改修の許可がおりました。
現在のこの美しい石垣は、ほとんど、その際に築かれたそうですね。寛永20年(1643年)のこと。その時のお城は、南が正面で、現在の追手門のところは搦め手門やったのでありました。
万治元年(1658年)に京極氏がやって来て殿様になりますと、万治3年、海の方の搦め手門を追手門にし、正面にしたのでありました。そして、現在のあの美しい天守閣をつくった訳です。
何故、表と裏がひっくり返ったのか、その理由は知りません。妄想はできます。
丸亀は、金比羅さん参りの四国の玄関。本州方面からやてくる金比羅参りのヒトたちは、岡山の下津井で船に乗り、塩飽諸島をたどって丸亀の港までやって来ました。そして、陸路、金比羅さんに向こうたのでありました。
讃岐の金比羅さんは、藩政期を通じて、どんどんと人気が高まったのはご承知の通り。このお城の少し西に、現在、南北に通じる大きな道路がありますが、そのひとつ西の道が、金比羅街道でございました。静かな狭い道路ですけんど、所々、それはそれは立派な常夜灯は標柱などがありまして、往時の賑やかさを忍ばせてくれます。本州から来た金比羅参りの皆さんは、丸亀の港から、このお城を左手に眺めながら金比羅さんへと向こうた訳です。
元々、丸亀藩が成立した頃は、内陸を向いて統治すれば良かったがでしょう。ですきに南向き。その後、どんどんと丸亀の港からヒトや物資が押し寄せて来るようになり、港の方の町が栄え、そちらが街の中心になっていったことは想像できます。
そうなってきますれば、お客さんがやって来る方に、また、繁華な街の方に、お尻を向けちょく訳にはいかん、ということで、表裏を入れ替えた、という推理が成り立ちます。
ともあれ、この丸亀城、早朝からホントの多くの善男善女が歩いて登りよります。坂道はこじゃんと急ですけんど、丁度良い運動になるがでしょう。市民にこれほど親しまれゆうお城も、ちょっとないくらい。丸亀の市民は、足腰が強いと思います。丸亀に藩が独立して、お城ができて、現在の市民にとってはかりしれない財産ができました。良かった良かった。