相撲王国、土佐〔3258〕2012/03/17
2012年3月17日(土)雨
今朝はしっかりした雨。小雨ではなく、中雨といったところでしょうか。
昨日、朝の飛行機で高知へモンて来た訳ですが、座っちょった座席近くに、大きな体格の高校生達の集団。そう言えば、高校選抜の相撲大会が、高知で開催されるがやったです。それに出場する高校生達でしょう。相撲部の選手は見ただけでしゅっとわかります。
あの、飛行機の狭いシートに、彼らはヒシメクように座り、行儀よく過ごしよりました。上空では、宿題を始める子も居て、なかなかほほえましかったです。
土佐は相撲所。ここは今朝の野市、上岡八幡宮。拝殿の上から、参道方面を撮影してみました。社殿の向く方角と、参道の方角が微妙にズレちゅうががおわかりいただけると思います。これは、上岡八幡宮の謎。で、その参道の右手に、樹々に隠れちょりますが、土俵があります。
土佐には、非常に盛んな宮相撲の伝統がありました。地域の中心となっちゅう神社には、必ずと言うたちかまんばあ土俵があって、そこで、相撲が繰り広げられてきたのであります。
県下各地で、神事としての相撲も行われてきました。例えば十和村では、猟師が獲物を仕留めると、その仕留めた者と他の者が相撲をし、必ず、仕留めた方が負ける、という神事をやりよったそうです。相撲は、豊年、家運向上を神様に願うものでありました。
で、相撲が盛んな土佐では相撲での喧嘩が絶えず、そんな時には、行事さんが、相撲の起源から説き起こして観客を静めたりしたそうです。
手元にある「高知県百科事典」という古い百科事典で「相撲」の項目を見ると、土佐での相撲の盛んな様を、活き活きと伝えてくれちょります。転載しますね。
土佐は典型的な相撲どころであり、独特の歴史と風土が、大兵たりとも恐れず小兵たりとも侮らぬという相撲根性と、激しい押し相撲を培った。土佐人の相撲熱は、すでに藩政時代の初期に燃えあがった。それは異常といえるほどの隆盛で、諸種の弊害さえ生ずるありさまだった。そのため執政野中兼山は1645年(正保2年)に相撲禁止令を出したほどであった。やがて土佐は自他ともに許す「相撲王国」になる。これを支えたものに宮相撲がある。神社のあるところに土俵ありで、それは夏の夜をいろどる興味深い風物詩でもあり、土佐の相撲は宮相撲を通じて土佐人みんなのものとなっていった。
以上転載。なんという熱い文章でしょうか。書いた方の想いが伝わってきます。
このにっこりでも、各所の土俵をご紹介してきました。現在、大人が出場する宮相撲はホントに少のうなっちょりますが、それでも残っちょります。2010年8月15日にご紹介した、本山町、上関阿弥陀堂の奉納相撲がそれ。ああいった伝統は、地域の結びつきを強め、それこそ中山間の集落を活性化していく催しとして、再興していく価値があるがやないろうかと思いよります。