大阪城、寿司食いねえ、源八渡し、大阪の賑わい〔3187〕2012/01/06
2012年1月6日(金)晴れてまんがな
今日は大阪。お昼の飛行機で飛んで来ました。今年初めての出張ですね。
飛行機から眺める四国山地は、梶ヶ森、剣山、三嶺とかの山々が雪を冠り、それはそれは美しゅうございました。
ここは桜ノ宮。JRの駅の南、大川を渡る源八橋の上から、大阪城方面を撮影してみました。
あの大阪城の建つ丘が、上町台地の北端。太古の昔、ここは海でした。その海に突き出した半島の先っぽが、あの大阪城の丘やったという訳です。
この大川、明治40年に新淀川が開削されるまで、淀川本流でした。その向こうを右に曲がった南岸が八軒家。繁華な船着き場がありまして、京、伏見との間を客船が行き来しよりました。いわゆる三十石船。
そう。このにっこりでも何度かご紹介してきた、森の石松、酒呑みねえ、寿司食いねえ、の舞台となった三十石船の、大阪側の発着所、八軒家は、そのしゅっと向こう。広沢虎造の名調子が思い浮かびます。
この川は、ヒトはもちろん、物資運搬につきましても幹線中の幹線。今は、このように静かな川ですけんど、明治の頃までは、それはそれは賑やかな、夥しい船が往来する川でした。その、ものすごい交通量であった川を渡る「源八渡し」が、この場所にありました。
案内板によりますれば、元禄の頃(1700年頃)にはもう、「源八渡し」として名が知れちょったとか。昭和11年に、ここに橋が架けられるまで、非常に重要な渡しやった訳です。
この西岸は与力町。ひまわり乳業の本社があり、現在高知市内のデポになっちゅう場所も与力町。つまり、高知の与力町と同じように上級武士の住むエリア。そして寺町でもあります。
東岸は、もともとのどかな農村地帯やったがが、京街道に近く、桜や梅の名所でもあったことから賑やかに栄え、この「源八渡し」もこじゃんと賑わったということです。今は昔。