宇佐、八幡宮、瀧ヶ谷に残された1軒〔3163〕2011/12/13
2011年12月13日(火)晴れ!
昨日、宇佐の静照さんの真覚寺日記をご紹介しました。安政地震津波から9ヶ月目の宇佐の状況がよくわかります。9ヶ月目の少し前、7月26日の日記に、興味深いことが書かれちょりました。
安政2年7月26日 曇り
朝9時ばあに、瀧ヶ谷へ行く。宇佐浦の氏神様である八幡宮を詣でた。この境内神林の大木は、その三分の一が枯れてしもうた。去年冬の津波の潮で痛んだがにかあらん。この瀧ヶ谷は、宇佐の西北に位置し、山裾の小高い所になっちゅうき、昔、宝永の地震津波の際の、「宇佐に、流れ残った家が一軒有った」という一軒は、この瀧ヶ谷の弥平というモンの先祖ということぢゃ。今回の地震津波でも、やっぱし、津波はそこまで到達せんかった。けんど、前の方の福智院には津波が押し寄せ、畳の上へ2m近う上がってきて、道具とか色々流されていったということ。今日はまたこじゃんと波が高い。晩方、橋田の子供が磯辺で羽釜一つを拾うてきた。最近は漁も少のうて、浦には活気がない。真夜中、一度小揺れ。
と、いうことで、紹介されちゅう八幡様を、今朝、お参りしてきました。この八幡様の向こうが瀧ヶ谷。奥宮正明さんが宝永地震津波を記録した谷稜記の、宇佐についての記述を今一度見てみましょう。
宇佐
亡所。潮は橋田の奥、宇佐坂の麓、或は萩谷口まで。山上の家一軒残し、在家の後ろの田に、先、潮、廻しけるゆえ、通路を失い、溺死400人余り。
この記述で、残された1軒というのが、上の日記に記載されちゅう弥平さんの先祖ということにかありません。宝永地震津波の際には、この向こうの山裾上にあった家1軒だけ、流されずに残ったという宇佐浦。その弥平さんの子孫の方は、そこに今もお住まいでしょうか。
宇佐は、藩政期、水主数、漁船数ともに藩内では2番目の規模を誇る漁業の町でした。しかし人家が密集し、1707年の宝永地震津波の前にも、火災で甚大な被害を受けちょりました。1684年に144軒、翌年に87軒。津波被害から立ち直りよった1718年には、271軒が焼亡したということです。度重なる災害のたびに立ち上がってきた宇佐の住民達。本当に頭が下がります。
とろこで、この、宇佐の八幡様に、ご覧のような大きな大きな百度石がありました。鬼頭良之助事 森田良吉建之、と刻まれちょります。久々に見ました。夏目雅子主演の映画「鬼龍院花子の生涯」に出てくる侠客「鬼政」こと鬼龍院政五郎のモデルになった人物で、大正から昭和にかけて、高知で活躍した鬼頭良之助。そう言えば、彼は宇佐の出身でした。
高知の色んな神社とかに、鬼頭良之助さんの名前を見る事ができます。にっこりでも何度かご紹介してきました。
今回、「今日のにっこりひまわり」のページから、にっこり記事の検索ができるようになりました。試しに、「鬼頭良之助」で検索してみてください。今までにご紹介してきた百度石とか玉垣とかがご覧になれます。
当然といえば当然ですが、宇佐にも、やっぱし鬼頭良之助さんの巨大な百度石がありました。