台地と谷地と都市形成〔3134〕2011/11/14
2011年11月14日(月)晴れ!
今日も良いお天気。暑いくらいです。
ここは山田の中須という 地区。ひまわり乳業から北西、立田をまっすぐ北上したところ。今は市町村合併で香美市になっちょります。その向こうが上り坂になっちょって、それを上がっ た台地の上に山田の街が広がります。JRの後免、土佐長岡駅から山田西町にかけての直線は、その台地の南東端を直線的に走っちょりますね。この台地、長岡 台地と呼びます。物部川と国分川に挟まれた台地。台地の上は、古来、人が栄える場所であってきました。
古代ローマ帝国は、ローマの7つの丘に建設 されたがはご承知の通り。その中でもカピトリーノの丘は、ユピテル神殿が建つなど、神聖にして最重要な丘でした。現在の市庁舎もその丘にあります。国会議 事堂のことをキャピトルというがは、この丘の名称からきちゅうがでしょう。7つの丘の上には貴族の邸宅などが並び、丘の間の低い土地には庶民が住み、商店 街ができ、という感じやったでしょうか。
実は江戸の街もそうながですね。東京にも、ローマと同じく7つの丘があるがをご存知でしょうか。上野台 地、本郷台地、小石川・目白台地、牛込台地、四谷・麹町台地、赤坂・麻布台地、芝・白金台地の7つ。ローマのカピトリーのの丘に相当するのは四谷・麹町台 地でしょうか。その台地の上に、江戸城、現在は皇居がございます。
その7つの台地は、もっと広域でみれば武蔵野台地の先っぽにあたります。海に突 き出した台地の先。そして家康の都市計画では、その台地の尾根筋に、つまり台地の上を主要な街道が通されちょります。本郷台地の上を中仙道、四谷・麹町台 地の上を甲州街道、赤坂・麻布台地の上を厚木街道が通ります。東海道は、台地の下の海沿いの平地を走ります。
そして、ローマと同じような街が形成されます。高台には武家屋敷が並び、谷間から海にかけての低い部分には庶民が暮らす。商業は、主としてその下町を中心に発展する。なるほど。
で、 もっと詳しゅうに見てみますと、皇居南西の三宅坂下から新宿御苑を結ぶ線より北側は、比較的台地の形状が単調で、細かい谷が少ない広い広い面をもった台 地。そこには中、下級武士が住みました。その線より南は、支谷がどっしこで入り組んだ地形になっており、坂道も多くなっちょります。そこには大名屋敷が並 びます。そんな地形の方が、見晴らしや利水などで、環境が良かったがでしょう。街は坂のある土地に形成されるということです。
「都市の建設には、台地と谷地が交錯する複合的な地形が基底条件である」というのは、水辺の街の復興を提唱しておられる法政大学の陣内秀信先生のお言葉です。