福船のひまわり、深渕の半四〔3120〕2011/10/31
2011年10月31日(月)快晴!
今日で10月もおしまい。明日から11月で、いよいよ晩秋ということになてきますが、今は、こんな季節でも咲くひまわりがあるがですね。ここは南国市福船。ひまわり乳業から物部川沿いに北上し、ちょっと西へ入ったところ。このしゅっと南には川原神社が鎮座しちょります。
ここ福船は、明治の頃までは福田村と言いよりました。村の東に物部川の渡し場があったので、そこが舟渡。1588年の、天正の地検帳にも「福田」「舟渡」がでてきますきに、古くから栄えちょります。
以前にも書きましたが、ここの舟渡を東へ渡ると野市の深渕。この渡しを挟んで、東西に往還が走っちょった訳です。
昔の土佐には、「てんくろう」とか「とっぽうこき」とか、まあ、個性的な人物がどっしこ居りました。昔話として今に伝わる人物も多いですね。そんな話を、土佐弁落語にして、以前、ラジオでやりよったがを覚えちょりますですろうか。
司 亭升楽のタタキ寄席。土佐料理の司さんが提供で、毎回、「い~ちじゃ~もの~お~い~ちじゃ~もの~」で始まる面白い番組でした。地元の落語家、司亭升楽 さんが、高度な土佐弁を駆使して、土佐のチンなおんちゃんとかの話を繰り広げました。手元に、そのテープがちょっとだけあります。その中に、野市、深渕の 「半四」さんの話が出て来ます。この半四(はんし)さん、「どくれの半四」というて有名やった、土佐人らしい人物。その逸話はいっぱいありますが、落語に なっちょったがは、神峯参りのお話。
半四さんがおった時代、安田の神峯(こうのみね)参りが流行っちょったそうです。八十八カ所の札所でも有名 な、山の上の名刹、神峯寺さん。野市の若い衆たちがお金を出し合い、一緒に神峯参りをすることになりました。当時の最大級の娯楽を兼ねちゅう訳ですね。 で、半四も誘われます。半四が仕える屋敷の主人は、それはそれはケチで有名。半四くん、2日の休暇をとって神峯参りに行きたい、と願い出ました。ところが ケチの主人は許してくれません。
「おまんばあ、心がすぐかったら(真っすぐやったら)、その想いは神峯さんにしゅっと届く。それやき行くにようばん。」
「いや、儂はどくれの半四と呼ばれるばああって、ひとっちゃあ心はすぐうございません。」
「いや、すぐいすぐい。まっすぐい。行くにゃあよばん。」
これにどくれた半四くん。田んぼへ行って、畦に肥をどんどこ流し込み始めました。それを見つけたご主人。
「こりゃあ、どいたことならあ。肥は肥柄杓でまんべんのうに撒かんと行き渡らんろうが!」
「神峯さんまで行き渡るばあ心がすぐうございますき。これっぱあのせんばい田んぼですもの、心さえすぐけりゃあ、全部行き渡りますろう。」
い~ちじゃ~もの~お~い~ちじゃ~もの~ 司の料理はい~ちじゃ~もの~
き~てみ~や~あ~の~んで~みや~ 司の料理はい~ちじゃ~もの~