介良富士北麓の道路工事は、ちょっとづつ〔3089〕2011/09/30
2011年9月30日(金)曇り
昨年、10月29日のにっこりを、トップページ「今日のにっこりひまわ り」ボタンの下のバックナンバーからご覧下さい。介良富士北麓の、道路拡張工事の写真をご紹介しちょります。あの工事は、介良から南国の方へ抜ける街道を 広げるもの。しかし、北側の、中野団地と道路の間には川が流れ、南は霊峰、介良富士ということで、なかなか工事も進みませんでした。1年近く前の、その写 真を見てみると、山の麓を切り崩し始めちゅう姿がわかります。今日の早朝撮影した写真をご覧下さい。工事は、その向こうの車のヘッドライトの辺りまで。一 年でこれっぱあしか進みません。大きな石垣をたくさん積んだ宅地がありまして、そこを切り崩すががおおごとにかありませんね。そこまでして、この神聖なる 霊峰を崩さんぢゃあちかまんと思うがですけんど。
この介良富士には、朝峯神社を始めとして、たくさんの神々しい場所があります。たぶん古墳も眠っ ちょります。石舞台のような産宝さんもあります。太古の昔から、神の山として大切にされてきたことは、ちょっとたつくってみたらよくわかります。そんなこ とと、道路工事は、関係無いがですね。
この道路、もっと東へ拡げていくと、墓地や、忠霊塔も切り崩していかんといけません。まだ、ちょっと時間がかかりそうな気配。
以 前にも書きましたが、太古の昔、物部川の河口は、この界隈でした。船岡山や吾岡山の南を西流し、この西で古浦戸湾に流れ込みよったらしいのであります。も ちろん、物部の流れは幾筋にもわかれ、田村遺跡の界隈からも太平洋に流れ込みよったでしょう。もし、その後も、物部の流れがここに残り、浦戸湾に通じ ちょったら、土佐の歴史もずいぶんと変わったものになっちょったでしょうね。物部川流域と浦戸湾は大河でつながり、物流やヒトの流れも物部流域中心にかな り活発に行われたかも知れません。古代の土佐は、浦戸湾につながる国分川の沿岸を中心に発展しました。もし物部川がここで浦戸湾に流れ込んじょったら。そ の利便性から言うても、この界隈、そして物部の流域が、土佐の中心になっちょったかも知れません。と、工事現場で妄想を暴走させる、秋の朝。