吉田備後邸跡と長宗我部の布陣〔2998〕2011/07/01
2011年7月1日(金)雨
そう言えば、まだ梅雨は明けちょりませんでした。今日は雨。が、7月です。梅雨明けも近いでしょう。昨夜の輪抜け様は賑やかやったでしょうね。よう行かんかったがが残念です。
さて、ここは南国市岡豊の吉田。岡豊の山の南東、国分川の南。ここに、小さな森が残されちょります。吉田城のあった森。吉田城は、長宗我部氏の重臣、吉田氏の居城。国親、元親さんの時代、ここを本拠にして吉田重俊さんが活躍しました。備後守やったので「大備後」と賞せられ、しゅっと近所の江村家に養子に入って元親家臣として活躍した息子さんが「小備後」。
ここは、こじゃんとわかりにくい場所。私有地のような小径を入っていった、民家の裏側。通りすがりに見つけることは不可能。このように祠が祀られ、その脇にいつくかの五輪塔が並んじょります。この地区に、吉田家一族の墓所もあったがかも知れません。
この鳥居の脚の間に見えゆうがが、ここが吉田氏の本拠やったことを示す碑。「吉田備後守邸」と刻まれちょります。しかし、碑の目の前に民家の壁が迫っちょりまして、キレイに撮影できませんでした。
昨日ご紹介した福留親子が、剛勇をもって長宗我部氏に仕えたとすれば、吉田親子は、智勇をもって仕え、活躍しました。有名ながは、安芸国虎さんとの戦。正攻法での攻めと、間道を利用しての奇襲を組み合わせ、計略で内部崩壊を謀った手腕は見事でした。
雨で霞んで見えづらいですが、その向こうに岡豊の山が見えます。福留隼人さんの田辺島からは、岡豊山は、とっと向こう、という感じですが、こっからですと、しゅっと、川向こう、という感じ。お膝元にデンと構えて、国親、元親さんの制覇戦を支え続けた吉田一族。
その遥かな子孫に、幕末活躍した、あの、吉田東洋さんがおります。
昨日も書きましたが、長宗我部軍は、岡豊山を中心に、その周囲をぐるりと重臣が固めます。見事な布陣というてカマンでしょう。そのひとつ、吉田城址からお届けしました。
にっこりひまわり連続3000日まで、あと2日!