歩いたあとに道はできる〔2912〕2011/04/06
2011年4月6日(水)快晴!
古来、道というものは、どのようにできてきたのか。ヒトや動物が歩いた場所が、徐々に道、路、径というものになっていったもんと思われます。山の中をたつくりよっても、道は網の目のように広がっちょります。その中で、利用者が多く、利用頻度の高い道が、次第に幹線の道となり、街道や往還となっていきました。
本来、こっからここまでが道、というようなものではなく、人通りの多い場所が踏み固められ、整備され、独立した道というものになっていったと想像できます。
ここは、ひまわり乳業本社屋の裏手。建物の横からこちらに向こうて、小径のようなものができちょります。この小径、昨年は存在しませんでした。
昨年の秋頃からこの小径のこちら側のスペースに、ひまわり太郎の社用車を停めるようになりました。そこで、日に数回、ここを歩いて通るようになった訳です。ここに車を停めちゅうのはひまわり太郎だけ。つまり、私一人で、日に数回、ここを往復しよりますと、このような小径ができてきた、ということです。別に、ここに道を作ろうと考えた訳でもなく、なんということ無しに、毎日を過ごしよりますと、小径ができました。最近、ご覧のように、クローバーがモシャモシャっと生えてきまして、冬の間はメッソはっきりしちょらざった小径の姿が浮き彫りになってきた訳です。
僕のあとに道はできる、みたいな詩がございましたが、この風景を見るにつけ、確かにそうぢゃのう、と、思います。道は、歩いた後にできていくもの。継続的に、ちょっとづつ、しぶとく、地味に、毎日毎日続けていくことで、道ができていくがでしょう。
この向こうには、田植えが済んだ田んぼが広がり、生命の息吹が日に日に聞こえるようになってきちょります。東日本でも、もうちょっとしよったら、春の命が生まれてきます。それぞれが、やるべきことを、継続的に、ちょっとづつ、しぶとく、地味に、毎日毎日やっていくことで、その後ろには道ができていきます。
なんちゃあぢゃない、こんな風景を見て、そんなことを考えるようになりました。