高知の城下町の防災意識〔2904〕2011/03/29
2011年3月29日(火)快晴!
高知の城下町は、最初に長宗我部元親さんが、そして、関ヶ原の後、山内一豊さんが入国してから整備されました。その、山内氏の考え方の中に、「総構え型」というががあります。城下町を堀と堤防で囲み、殿様の権威をみせつけると同時に水防の役割を果たさせるものです。特に、上級武士の住む郭中は、かなりの防災意識の高いエリアになっちょりました。鏡川や江ノ口川の堤防は、藩政期初期からすでに2.4m~2.8mの高さのものが築かれました。こないだ、宝永の地震津波の際の廿代町の浸水が深さ2.4mというのは、その堤防の高さまで水がきたことを示しちょります。郭中を守る堀と堤防は、郭中の東と西にもありました。
ここは、以前にもご紹介した、その堤の痕跡。大丸さんの北側、四国銀行中央支店さんのところから斜めに西北西方面につながっちゅうこの道路は、真ん中が盛り上がっちょります。丁度、車が停まっちゅう部分。あそこには、藩政期、堀と堤防がありました。この盛り上がりが、その堤防の痕跡。
文献によりますと、この場所での堤防の高さは1.5m。堀詰から南の堤高は2.8m。鏡川や江ノ口川に大堤防が築かれ、現在の宝永町界隈の南北にも堤が築かれ、その内側にも更に堤防を築くという念の入りよう。それでも、宝永地震津波の際は郭中もかなり浸水してしまいました。
考えてみますに、この郭中を守る堤防は今は無い訳で、鏡川や江ノ口川の堤防を津波が越えてしまうと、江戸時代よりも無防備な都市になっちゅうがかも知れません。当然、ここは中世以前は海の底で、地震による液状化、地盤沈下も予想されちょります。
郭中を守る堤防が無い現代。宝永級の津波がやってくれば、宝永津波以上の浸水が、この高知の街の中心地を襲うかも知れません。
防災意識は、昔から高かった。今はもっと意識を高め、対策を考え、実行することが必要。江戸時代よりひょっとしたら無防備になっちゅうかも知れんことを想像して。