須崎の津波と重要な示唆〔2902〕2011/03/27
2011年3月27日(日)晴れ
今回、高知でも津波の被害がありました。ひどかったのはやはり須崎で、2.6mを観測、船が岸壁に打ち上げられたり養殖カンパチが大被害を受けたりしました。須崎湾は、その形状により、古来、何度も津波の被害を受けてきました。
ここは、須崎市役所の近くにある「宝永津波溺死之塚」。宝永4年(1707年)に発生した宝永南海地震の津波被害者を弔う塚。建てられたのは、その149年後の安政3年。その事情について、この碑に刻まれちょりますので、いつものように土佐弁に読み下してみます。
宝永津波溺死之塚
1707年10月4日に発生した宝永の大地震で大津波が起き、須崎で400名を超えるモンらあが溺死し、池に浮かんで筏を組んじゅうみたいになった。池の南側に長い穴を2列に掘り、その亡骸を埋めたがやけんど、その150年忌の弔いに、ここに改葬するがに際して、この塚を建てる。
その準備をしよったところ、折しも、1854年(安政元年)11月5日、大地震と大津波がやってきた。ぼっちり、昔の伝聞とか記録とかをみんなあ見ちょったもんぢゃき、我れ先にと山林に逃げ登ったりして、昔みたいな人的被害は被らんかった。けんど、そんな中で、船に乗って沖に出ろうとして逆巻く波に飲み込まれ、船が転覆して三十数名亡くなったがは、本当に痛ましかった。
これは、昔、山に登って逃げよったら落石に打たれて死んでしもうたが、船に乗って沖に出たモンは助かって帰ってきた、というデマを信じてしもうたことによるがぢゃ。元々沖に出ちょって津波に遭遇した場合はいざ知らず、津波がやって来ゆう時に船出するがは無茶というもんで、絶対にやったらいかん。
宝永の南海地震の際には、地震が起きたら津波がくる、ということをわきまえちょらず、津波がやって来たがを見てから逃げ始めたもんぢゃき、逃げ遅れて大惨事になったがよ。まっこと悲しいことぢゃ。地震が起きたら必ず津波がやってくると思うて、絶対油断したらいかん。けんど、地震が発生すると同時に津波がやってくるもんでもない。ちっくと時間はあるきに、揺れの状況を見定めて、落石とかの危険の無い、高い場所を選んで逃げんといかん。と、言うたち、高い山のてっぺんまで逃げるにもようばん。安政南海地震の津波も、古市町とか神母の界隈は、屋敷の中までは水は来んかった。宝永の際にも、伊勢ケ松でも数人は助かったというきに、とてつもなく高い波がくる、という訳でもない。この150年で2度あった事例やき、参考にしちょきとおせ。
後世、また、南海地震と津波がやってきたときに心得にもしてもらいたいと思い、みんなあで話し合うて、石碑を建て、この事を刻んじょこうということになって、儂に言うてきたがよよ。ほんで、その概略をこうやって書いてみた。
1856年(安政3年)10月4日
古屋尉助
これが、須崎の糺町にある、この石碑の全文。船に乗って逃げろうとしたらいかん、など、重要な示唆が書かれちょります。ただ、ここに書かれちゅうことは、宝永と安政の2回の経験に基づくもの。今回の東日本みたいに、1000年規模のものがやってくる可能性があることが、今ではわかっちょりますので、とにかく油断せんづくに逃げんといかん、ということやと思います。