新川の落としの美しさ〔2810〕2010/12/25
2010年12月25日(土)晴れ!
今日は風がエラいです、西風が。かなり冷え込んできましたね。明日は高知でも雪が降るかも知れんという予報になっちょります。
今日は、春野、最近高知市に合併された旧春野町に、用事があって行っちょりました。で、用事を済ませた後、旧役場から南下して四国八十八ヶ所の札所、種間寺の前を右折、強烈な西風に向かいながら走りますと、仁淀川堤防のちょっと手前に由緒ありげな恵比寿さんがあり、この眼鏡橋を渡ります。
春野町は、縄文の昔からヒトが住みつき、栄えてきた土地。中世にはたくさんの豪族がたくさんの城を構えて割拠しちょった場所。そして藩政期に入り、野中兼山さんによって灌漑用水、物流の水路が整備され、豊かな農村地帯となりました。
ここは、その、野中兼山さんがつくった用水路施設、「新川の落とし」。
以前、2008年1月2日のにっこりでもご紹介した「唐音の切り抜き」等の工事で、仁淀川、八田堰から分かれた水路は新川川となり、そして長浜川につながって浦戸湾に出るようになりました。仁淀川を、太平洋を経由せずして浦戸湾、そして高知の城下につなげた訳で、物資の輸送に画期的な革命をもたらしたのでありました。
水路は、それぞれ色んな高さを流れよります。そこで、野中兼山さんは、今にも残る様々な工夫をしました。ここの「落とし」もその一つ。
この手前まで流れてきた水路が、この先で、3m程低い水路とつながっちゅう訳で、30mの長さにつくられたスロープを水流が流れ、上下の水路の水量を微妙にコントロールするのでありました。
当然、荷を運んできた船は、ここで積み替えとなります。
そこで、この界隈には荷揚げ場、荷降ろし場がつくられ、ヒトも集まるようになり、商業の街として栄えるようになったそうです。この現在の眼鏡橋は明治期につくられたものを今に伝えるもので、「涼月橋」というコジャレた名前が付いちょります。橋のたもとに「涼月」という料亭があったきらしいですな。
人工構築物であるにもかかわらず、この、自然にマッチした美しさはなんでしょうかね。やはり、設計のセンスが光っちゅうと思います。機能美と自然美との調和を、ヒトは、大昔から心がけてきたのであります。大切なことやと思います。