観音堂の大銀杏、那須信吾、吉田東洋暗殺事件〔2793〕2010/12/08
2010年12月8日(水)快晴!
今日も結構ぬくいです。昭和16年の今日、太平洋戦争が始まりました。そして昭和55年の今日、ニューヨークでジョンレノンが射殺されました。ナイトクラブで力道山が刺されたがも、昭和38年の今日。平和を考えさせられる12月8日です。
こういった暗殺という手段は、本当に悲しい手段ですが、歴史の重要な場面でしょっちゅう行われます。
幕末土佐での暗殺事件で一番有名ながは、参政、吉田東洋暗殺事件でしょう。文久2年(1862年)4月8日夜、帯屋町でその事件は発生しました。
高知城二ノ丸の御殿で藩主山内豊範くんに「日本外史」と「信長記」の本能寺の変を講義し、最終講義ということで酒肴がふるまわれた後、午後10時頃に家へ帰ろうとします。
連れと途中で別れ、一人で今の帯屋町と中の橋通りの交差点界隈に差し掛かったところで、土佐勤王党のメンバーに斬り殺されました。龍馬伝では、後藤象二郎とかと一緒でしたが、実際は一人になったところを狙われちょります。雨は結構降りよったにかありません。
ご承知の通り、斬ったがは那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助で、斬り倒した後、大石と安岡は仲間との待ち合わせ場所、思案橋近くの観音堂に走りました。那須信吾は、どういう訳か一人で苦労して首を切り落とし、溝で首を洗うて、用意しちょった下帯にくるんで南奉公人町を抜けて観音堂へ向かいます。
ちなみに、首を洗うた溝は、今年3月29日のにっこりで、その痕跡をご紹介しちょりますきにバックナンバーをご覧になってみてください。
さて、観音堂で仲間に首を渡した信吾さん、大石、安岡と一緒にそのまま伊予へ脱藩しました。首を受け取った勤王党員は、今の紅葉橋、当時の雁切橋の河原に晒して、高札をかかげました。
写真中央の、黄色いまんまるこい部分は観音堂の大銀杏。あそこで首を持って集合した訳です。で、こっから左手へちょっと行くと雁切橋。
雨の夜、この場所で首の受け渡しとかが行われた訳です。
脱藩した那須信吾さん、翌年8月の、吉村寅太郎指揮する天誅組の乱に参加して戦死しちょります。こないだ書きましたように、志士のスポンサー淡海さんによって龍馬と同じ霊山神社に葬られました。
あの大銀杏の樹齢はどれくらいでしょうか。那須信吾たちが集合した際には、もう立っちょったがでしょうか。そうとすれば、歴史の現場を見てきた大銀杏ということです。