大人5名とチビ2名〔2734〕2010/10/10
2010年10月10日(日)良く晴れました
さわやかな秋晴れ。いや、秋晴れと言うにはちくと暑かった日曜日でした。ギラギラ照りつけるお日様の下、今朝は家から春野方面をたつくってきました。
鏡川から通称100円トンネルを抜けて競馬場の方に出て、そっから西へ。県立春野運動公園では、高校野球秋季大会の準決勝やらさまざまなスポーツが行われよって、なかなか賑やかでございました。その運動公園のしゅっと西側に、「はるのの湯」という温泉宿泊施設がございます。写真は、その施設が立つ小高い丘の上から北向いて撮影したもの。
斜面を採石されちゅう山は柏尾山で、一番低い部分が治国谷の峠。はるのの湯が建っちゅう丘には、南北朝の時代から、お城が築かれちょったことが発掘によってわかっちょります。今の高知城の山を本拠とした土佐南朝陣営の中心、大高坂氏に対抗する北朝方の拠点やったがやないろうかとも言われちょります。南朝勢力は土佐の中原に勢力を持ち、北朝方は、今の鷲尾連山の南側から山越えで南朝方に攻め込んでいったと妄想されます。筆山での南北朝合戦は有名ですもんね。
何故、ここに北朝方が拠点を置いたがか。
この丘から見回してみても、メッソ見晴らしが良い訳ではありません。春野の吉良峰も見えませんし、長浜方面も見張らせません。が、この北側は鷲尾連山のなかでも標高の低い峠があり、春野方面から土佐中原への通り道になっちょったにかあらんがです。藩政期、この正面を北へ抜けていくルートは人々が通る往還やったことからも、ここが東西と南北の主要道路が交差する交通結節点やったかも知れんことが妄想される訳です。
この丘に聳えちょったとされる木塚城は、戦国土佐の決勝戦、長宗我部氏と本山氏の合戦では、本山方の陣地になっちょりました。長浜城を突然の夜襲で長宗我部軍に奪われた本山軍は、本拠朝倉城から、木塚城を通って長浜へ援軍を贈り、戸の本で一大決戦にのぞんだとされちょります。ですきに、朝倉城からは、この北から山を越えてここ木塚城へ入り、ここで吉良城とかからの援軍と合流、陣営を整えて西進し、長浜戸の本で長宗我部軍との戦いに突入したがやないろうか、と、ひまわり太郎が勝手に妄想しゆう訳です。
全然話がかわりますが、お昼ご飯を食べた市内某所のレストランでの出来事。
子連れの7人の団体さんがお昼過ぎに入店してきました。アルバイトのおにいちゃんが「何名様でしょうか?」と訊きます。おじいちゃんらしき方が「大人5人とチビ2人ぢゃ」。これにおにいちゃんが復唱して、「はい。大人5名とチビ2名ですね。」
思わず、口の中のものを全部吹き出してしまいそうになり、こじゃんとあわてた秋の午後でした。