鬼頭良之助さんの話〔2680〕2010/08/17
2010年8月17日(火)快晴!
雲ひとつない朝。暑い一日になりそうです。
ここは夜明け前の潮江天満宮。参道脇の大きな百度石をご紹介します。大正6年に建てられた百度石で、鬼頭良之助事 森田良吉、と刻まれちょります。鬼頭さんはこのにっこりひまわりではお馴染みの、大正期から昭和の初めに土佐で活躍した侠客。大親分ですな。高知市内には、あちこちにこの方の刻まれた石があるがはご承知の通り。今思い出すだけでも、ここ潮江天満宮、九反田地蔵尊、薫的神社の、どれも巨大な百度石に、土佐稲荷神社の玉垣、そして柳原のフランクチャムピオン記念碑などなど、とにかくあちこちで見かけます。
この人物を、高知新聞社刊「高知県人名事典」に沿うてご紹介しましょう。
明治6年、宇佐の海産物商に生まれた森田少年は、少年時代に家出して大阪へ向かい、遊侠の徒、小林佐兵衛の子分になりました。大正4年、高知へ帰って九反田で海産物商をオープンさせます。このとき42歳ですきに、もう立派な侠客として名が通っちょったがやないですろうか。しゅっと魚市場の用心棒になり、あっという間に顔役になっていったのでありました。
この方、土佐の財閥宇田友四郎さんや川崎幾三郎さんや野村茂久馬さんとも接近して、子分をどっしこ抱える大親分となります。しかしただの侠客ではなかったのが鬼頭良之助。大正6年、つまりこの百度石を建てた年、大阪から帰ってまだ2年目に、アメリカ人飛行家のフランクチャンピオンを招いて曲芸飛行ショーを敢行、飛行中墜死したのを悼んで柳原に碑を建てました。翌大正7年の米騒動の際には県民の苦しみを訴えて財閥宇田にお金を出させ、無料で米を配ったりしたそうです。「鬼頭米」と呼ばれ、これが土佐での米騒動を未然に防いだと言われちょりますな。社会労働運動で名高かった安芸盛(あきさかん)さんと意気投合し、労働組合を結成して大正9年に第1回メーデーをやったといいますきに、ホント、ただの侠客ではありません。その後、東京大相撲の興業をおこなったりと、主に興業分野で活躍し、昭和14年、大相撲興業の力士たちを高知駅へ見送った直後に駅で倒れ、翌年亡くなっちょります。
ビッシリ書いちょりますが、映画「鬼龍院花子の生涯」の鬼龍院政五郎は、この鬼頭良之助さんがモデルでございます。仲代達矢、渋かったです。その縁で、鬼頭良之助さんゆかりの九反田地蔵尊には仲代達也さんの名前が刻まれた灯籠が寄進されちょります。