関ヶ原の合戦、盛親さん〔2663〕2010/07/31
2010年7月31日(土)名古屋は晴れだがや
てな訳で今日は出張で名古屋岐阜方面。小牧の県営名古屋空港へ、朝の飛行機で飛んできました。帰りの飛行機は夕方ですきに、途中の関ヶ原へちくと寄ってみました。実は、ひまわり太郎、歴史好きのくせに関ヶ原へ来たがは初めて。やっぱし現地に立ってみると、本とかで見たがとは全然違う関ヶ原を体感できますな。
ここは石田三成さんの本陣があった笹尾山。 1600年9月15日、この眼下で関ヶ原の合戦が繰り広げられた訳です。家康さんの本陣は、左手に見える山の一番手前、低い桃配山にございました。そのこちら右側に東軍の主力部隊が並び、右手の方から西軍の主力部隊が並びます。右手の山、松尾山が、関ヶ原の運命を決めた小早川秀秋軍が布陣した山。
こうやって見てみると、この関ヶ原の勝敗を握っちょったのは毛利一族やということがしゅっとわかります。毛利の本隊は、家康本陣の向こうの山、南宮山にあり、その左の麓近くに吉川が陣取って、家康の背後をうかがいます。吉川も、右手の山の小早川も「毛利両川」といわれた一族です。小早川秀秋は、家康側に寝返ることになっちょりましたがなかなか動きません。しびれをきらした家康さん、松尾山で催促の砲撃を行い、パニックになった秀秋くんはあわてて大谷軍におそいかかった、というがが勝負の分かれ目になったがは有名ですよね。その時毛利は、前に陣取る吉川が動かんので、あの南宮山にとどまったまま傍観。もっと早い段階で吉川と毛利が東軍を挟み撃ちにする形で攻撃に出ちょったら、そして小早川が松尾山から寝返らずに攻撃しちょったら、たぶん勝負は西軍の完勝やったとこが、こっから眺めよってもわかります。
さて、そのとき長宗我部盛親さんは。
今回、実感できたがですが、盛親さんの陣地はあの南宮山のまだ向こう、こっからは全然見えん、標高100mちょっとの山。この関ヶ原から南宮山と向こうに霞む養老連山の間の川を下っていった、広大な濃尾平野への出口に当たる山。無線もなかった当時、その山から関ヶ原の状況は全然わからんかったがやないろうか、というような場所。こりゃあ、積極的に西軍に参加するつもりはなかったと思われても仕方ないですな。実際、ホントは東軍に参加したかったという信憑性の高い話もあります。
毛利、吉川、小早川がキチンと西軍で戦うて、東軍が敗走してきたら、平野への出口で待ちかまえちょって討ち取ろうとしたがかも知れません。が、今となってはすべては闇の中。盛親さん布陣の山から見えるがは、南宮山の大きな山容と広大な濃尾平野。毛利とは結構近かったとされる盛親さん、毛利と一緒に日和見を決め込んじょったがかも知れん、と、この石田三成本陣で眺めよったら思えてきます。
やっぱり歴史は現地で体感せんとイカンですね。