東洋さんちはこの右手〔2608〕2010/06/06
2010年6月6日(日)晴れ!
ここは帯屋町。藩政期後期、この界隈は上士の中でも身分の高い人々が住んだエリア。戦前は病院とかが多かった地区ですが、戦後、高知の中心商店街として発展しました。
この写真、リブロードさんの前も交差点から西向いて撮影したもの。で、この右端、女性が歩きゆうところから北へ路地があります。この界隈、幕末、かの吉田東洋さんの広壮なお屋敷がありました。この路地も、その取り付け道路の名残かも知れません。龍馬伝「わしは天才ぢゃき、なにをしたちかまんがぢゃ」の吉田東洋さん。
容堂侯の支持を得て、藩政改革を強力に押し進めた東洋さんは、あのセリフでイメージされるとおりの性格でした。同役同格の参政に朝比奈泰平さんという人物がおりました。職場の部下が、その人物についての東洋さんのあしらいを書いたメモがあります。
「日々役場にて元吉(吉田東洋さんのことですね)の泰平を叱ること畜生のごとく、会所出勤の面々それを聞き笑止気の毒がらぬものなし。」こりゃあ敵も多いはずです。保守派の猛烈な抵抗と尊王攘夷派の突き上げに挟まれて、ホントに大変やった訳ですけんど。
で、文久2年4月8日夜10時頃、お城からこの自宅へ帰る途中、攘夷派の連中に暗殺されました。暗殺されたのはその向こうの信号の交差点。アーケードとアーケードの間。龍馬伝では後藤象二郎とかが居合わせちょりました。確かに、一緒に帰りよりましたが、後藤さんちは向こうのアーケードを向こうへ出た所から左へ、つまり南へ行った場所なので、途中で別れちょります。殺された場所に居ったのは連れの若党。で、その若党はこの屋敷まで逃げてきて奥さんに報告。奥さんは、隣の末松さんに声をかけ、暗殺現場に駆けつけて遺体を収容したということです。
ただ、首は切られて持ち去られちょったので、衣服とかで本人確認をしたがでしょうか。暗殺者たちは、今年3月29日のにっこりでご紹介した溝にて東洋さんの首を洗い、雁切り橋で待ち受ける仲間の所へと走りました。
ちなみに、向こうのアーケードを向こう、つまり西へ抜けたその向こうに南会所があり、そこに、捕らえられた武市半平太さんが投獄されちょります。その北向いが、現在のひろめ市場、当時、家老の深尾弘人(ひろめ)さんのお屋敷。弘人さんは、土佐藩上層部の中では、かなり有力な東洋さん支持派。
家の向かいに投獄された攘夷派の志士や半平太さんのことを、どう思いよったでしょうかね。