増水した物部川を眺めながら考える〔2595〕2010/05/24
2010年5月24日(月)雨
よう降ります。昨日から、今朝にかけて、結構ガイに降りました。風もピューピューいうて、時化みたいでした。せっかく高知へやって来た観光客さん、ごめんなさい。
ここは会社の東側、物部川の今朝の姿。土手から撮影しましたが、雨で増水して大河になっちょりました。普段ですと、向こうに三宝山がキレイに見え、美しい景色になるがですけんどね。河中に木が立っちゅう所とかは、普段は陸地。向こうの土手とこっちの土手の間の広い河原の中を、蛇行しもって走りゆうががいつもの物部川。ですけんど、ちくと雨が降るとこのような大河になります。
昔、物部川の本流はもっと西にあったそうです。が、このデルタ地帯、海に向こうて幾筋もの川に枝分かれして流れこんでいきよったことでしょう。この界隈、島内さんとか高島田さんとかいう名字が多いですし、ちくと北へ行くと、戸板島とか中須とかいう地名も残っちゅうことからも想像できますよね。そのデルタ地帯に、弥生時代、南四国中央部最大級の集落がありました。
物部川がもたらす肥沃な土地は、たくさんの人々を養う豊かな実りをもたらしてくれた訳ですけんど、裏返せばいつも洪水に怯えよらんといかんかったがでしょう。治水が為された現代でも、ピットの雨でこんなに増水するがですき、昔は逃げるしか手が無かったと思われます。が、幾筋も走る小川は、大水の際には濁流になったでしょうき、簡単には逃げれんかったと思います。早い早い見極めがこじゃんと大事やったでしょうね。
田村の弥生遺跡は、いわゆる「母村」としての位置付けがなされるそうです。つまり、この大集落を元にして、いくつもの村が派生的にできていったということ。衛星都市としてできていって、独立したがでしょうか。発掘跡からは、ビッシリギッチリ洪水に遭うて壊滅的被害を受けながら、復活を果たしていった古代の民の努力と苦労が偲ばれるのでありました。