夜明け前の五台山頂、何故戦国の城山にならなかったか〔2596〕2010/05/25
2010年5月25日(火)薄曇り
今日は薄日が差してくるお天気。暑うなはりそうな気配です。
ここは五台山頂の展望台。夜明け直前の高知市内方面を撮影してみました。今、夜明けは丁度5時くらいですきに、それよりちょっと前。まだこの時間帯は、五台山を歩く方にも遇わず、静かな静かな展望台でした。
眼下に見える灯りは青柳橋。その左手に弘化台の人口島。その向こう側にぽっかり浮かぶ島が丸山台。そう。こないだ、2度目の徒歩上陸に成功した丸山台。その向こう側が鏡川と堀川の河口。
朝靄がかかって、高知城とかは見えませんでした。五台山の標高は146mですけんど、この展望台は139m。こっから見る高知市内の美しさはご存じの通りです。
長宗我部家は、室町時代、この五台山麓の吸江(ぎゅうこう)寺の寺奉行として活躍し、徐々に力を蓄えて戦国へと突入していきました。土佐守護、細川氏の配下やった訳です。吸江寺は、かの夢窓疎石さんが庵を結んだお寺で、まあ、由緒ありまくる、大切なお寺さんでした。そこを任された長宗我部家は、細川氏からもかなり重きを置かれちょったと考えられます。
元親さんや国親さんのご先祖様は、この五台山頂上から中原を眺めたでしょうか。北東を見れば、自分の本拠地岡豊山が見え、浦戸湾から国分川を通ればしゅっとでつながっちょります。こうやって西を眺めれば、川に囲まれた小山に大高坂氏や国沢氏が盤踞しちゅうがが手に取るように見えたはずです。まだ、その頃の長宗我部氏は、これを全部支配しちゃお、という想像力は働かせやあせんかったかも知れません。
そう言えば、この五台山を本拠にした武将の話を聞いたこと、ないですよね。このように見晴らしは抜群やったのにどうしてでしょうか。お寺の勢力が強かったがでしょうか。周囲が湿地帯でノウが悪かったがでしょうか。岡豊山や朝倉山に比べると標高が高すぎるがも気になります。長宗我部さんに尋ねてみたら、明快な回答がしゅっと返ってきそうですな。