高知空港のある場所〔2203〕2009/04/27
2009年4月27日(月)晴れ!
今日は月曜日。今、東京へ向かう飛行機の中で、このにっこりを書きよります。こここは高知空港の屋上。展望所になっちょりまして、ここへあがって来るに100円必要。昔、子供がこんまい頃には、たまにここへ連れて来たりしよったがを思い出しました。
今日は平日で、この屋上には誰も居ず、穏やかな日差しの中、静かな雰囲気でございました。
戦前、この界隈は優良な田んぼが広がる三島村という村で、尋常小学校もありました。農地に適しちゅうということは、ここが県下最大級の弥生集落遺跡であることからもわかります。物部川河口の、肥沃な平地が広がっちょりまして、稲作や畑作にこぢゃんと良かった訳です。
その後、古墳時代を経て、白鳳、奈良時代になると土佐の中心地は現在の南国市国分界隈に移りました。国府がそこにつくられたがです。では、古墳時代はこの辺はどんなになっちょって、有力者は誰やったのか。
物部川の本流は、その頃はいまよりもずっと西。ですきに、この界隈から東へ行くとしゅっと野市。いっつもご紹介する上岡の八幡様があります。あの小山は上岡であり神岡。物部氏とこぢゃんと関係の深そうな雰囲気満満の小山は、たぶん物部氏関係者の古墳やと思います。と、いうことは、古墳時代も、この界隈は土佐の中でもかなり重要な役割を果たしよったことが妄想されます。
奈良時代から平安時代には中心を北西の国府に奪われますが、鎌倉時代になってもう一度、土佐の中心になりました。守護代細川氏の屋敷がつくられ、そこで政務を執りよりましたですきに、やっぱし土佐の中心地。肥沃で交通の便の良い土地は、政治の中心としても適しちょったという訳でしょうか。
戦国時代になって、無防備なこの界隈は政治の中心では無いなっていきました。江戸時代になるとすっかり忘れられて静かな農村に戻ったのであります。
太平洋戦争後期、海岸沿いの広い平地が、飛行場を作るがに適しちゅうということで海軍の飛行場がつくられました。そして今。高知の空の玄関として活躍する、高知空港になっちょります。