水鳥の楽園〔2145〕2009/02/28
2009年2月28日(土)晴れたり曇ったり
ここは今朝の鏡川、雑喉場橋北詰のちょっと西から潮江橋方面を撮影しちょります。この川面には、たくさんの鴨。九反田橋界隈から天神大橋の上流まで、かなり夥しい数の鴨が、冬場になると訪れます。干潮時には川縁の浅瀬で川の中に首を突っ込んでお食事をしよりまして、このような満潮時には川の中程でプカリプカリと浮かんでひなたぼっこ。なんとも羨ましい光景。
この北岸は東唐人町で、戦争の頃までは豆腐屋さんが並んじょった堤防エリア。その北側は弘岡町。
戦国の頃、今の高知城がある大高坂山から東は、浦戸湾まで、川の流れによってできた小山が点在する湿地帯やったそうです。国沢という名称で呼ばれた湿地帯。国沢氏が支配しよった訳ですが、長宗我部元親さんが攻め込んできて支配下に入ります。元親さんは、岡豊からここへ出てきて、大高坂山にお城をつくり、岡豊から市町を移設してきて城下町をつくろうとしました。その際、国沢に点在した小山はならされ、低湿地にはその土が入れられたことでしょう。
たぶん水害に悩まされた元親さんは、浦戸にお城を築いてそちらへ引っ越していきました。が、市町は新市町として残され、そして山内一豊さんの入城を迎えたのでありました。城下町づくり、治水のスペシャリスト、一豊さんは、ここに本拠を置くことを決め、県内各地の城下町を移設してきて町づくりを行いました。最初につくられた古町七つですな。その中に、この北側の弘岡町もありました。もちろん、現在の春野の弘岡から移設されてきた町。吉良氏が支配しちょった弘岡の住民が、ここに移り住んだ訳です。
戦国の頃まで湿地帯やった国沢、そしてその南を流れる鏡川は、たぶん、その頃から水鳥の楽園やったことでしょう。冬になると、たくさんの渡り鳥がやって来て、川面や湿地帯に群れをなしちょったことは想像できます。
今、街中の川になった鏡川ですけんど、やっぱしこうやって、水鳥はやって来てくれるがが嬉しゅうございます。