鏡川にゾブりこんだ夏の日〔1942〕2008/08/09
2008年8月9日(土)晴れちょります
そんな訳で今日は高知。今週、東京に2往復しましたですけんど、定刻に飛行機が飛んだがは昨日のイキシナだっけ。こないだのイキは1時間遅れ、帰りは30分遅れ、昨日の帰りは50分遅れでした。う~ん、夏休みでお客さんが多いとはいえ、ちくとあんまりやないでしょうかね、こりゃ。
高知は明日明後日がよさこい。今日が前夜祭ということで、街中はその準備やらなにやらで賑やかになっちょります。今日は、お昼過ぎに時間ができましたですきに、鏡川を走りに行っちょりました。
しかしまあ、暑いですね。お昼過ぎにお日様を浴びながら走りますと、頭がボーっとしてきます。
で、途中、我慢できずに鏡川にゾブリこんでしまいました。ここは、新月橋と紅葉橋の間。河川敷が広いこの界隈は、市民の憩いの場になっちょります。が、しかし、これっぱあ暑いと河川敷の公園で遊びゆうヒトも少ないですな。川の中で遊びゆう家族連れは居りました。
心地よさげでしょ?
が、結構水温は高うございました。ここから上流にはいくつか堰が設けられちょります。そのせいでしょう。冷たい水ではございませんでした。けんど、炎天下のランで火照りきった身体を冷やすがには十分。心地良かったです、まこと。
このしゅっと上流に架かっちゅう橋は紅葉橋。地元の古い方は雁切橋(がんきりばし)と言いますね。昔、その界隈に罪人の首切り場があったきです。
藩政期、鏡川下流域に架けられちょったがは天神橋と雁切橋のみ。江の口川にはどっしこ橋が架かっちょったことを思えば、かなり意図的やったことは簡単に想像つきます。にっこりひまわりのディープな読者さんは、もうお解りの通り、長宗我部氏の残党対策が、藩政期初期にその政策が採られた主たる理由。
こないだ、高知新聞に、長宗我部元親さんが都会の若者の間でちょっとしたブームになっちゅう、という記事が載っちょりました。エイ話ですね。高知では、未だに400年前の話を引こずっちょります。「アシャあ長宗我部ぢゃきに、山内とは違わあよ」という高知のおんちゃんは、結構多いです。