広島の暑い夏〔1932〕2008/07/30
2008年7月30日(水)広島も暑いけえのう
そんな訳で今朝は猛暑の広島。早朝から、こぢゃんと暑いけえのう。ひまわり太郎の広島弁は、仁義なき戦いで勉強しちょりますきに、ホンモノとはちと違うかも知れません。
あと一週間で8月6日。戦後、63回目の8月6日。ここ広島は、地球上でも特別な場所です。広島市内をたつくりますと、あちこちにたくさんの慰霊碑や鎮魂のモニュメントがございます。ここ広島城の周辺にも。この天守閣は昭和33年に外観再建されたもの。本物は、もちろん1945年8月6日に破壊されちょります。
広島城の公園内には、日清戦争の際の大本営の跡があります。思えば、この戦争を引き起こしたあたりから、原爆投下までずうっと繋がっちゅうがですね。そのことを、もう一度かみしめんといかんでしょう。
ここはお城の北東。このお堀にも、たくさんの被爆者の方が逃げてきて亡くなったそうです。今は静かなお堀ですが、凄惨な現場でした。
このしゅっと北側に、広島陸軍幼年学校跡があって、門柱だけが残っちょります。設置されたがは1897年ですきに、日清戦争のしゅっと後ですね。この教育が、日本を日中戦争や太平洋戦争に引きずり込んだとも言われちょりますので、原爆で破壊された広島の幼年学校の立場も複雑です。昭和3年、世界的な軍縮の流れのなかで一旦廃校となりますが、昭和11年にまた再開された幼年学校。昭和初期の軍縮の流れを必死になって推進したのは、高知が生んだ信念の宰相、浜口雄幸さん。東京駅で軍縮反対の暴漢に襲われ、その怪我がもとで命を奪われてしまいました。あの後、日本は軍縮を忘れて1945年の夏まで暴走していったのでありました。
広島を走ると、色々と考えさせられます。