民権ばあさん19歳、頭山満生後1ヶ月〔1898〕2008/06/26
2008年6月26日(木)曇っちょります
さて、今日も、純信お馬スキャンダルが日本を席巻した1855年シリーズ。その年、純信さん満36歳、お馬さんが満16歳ということで、龍馬さんも20歳の若者というお話をしました。「民権ばあさん」として有名な楠瀬喜多さんは、龍馬さんの一つ下、お馬さんの3つ上ですきに、この時、19歳の乙女やった訳です。後に自由民権運動の中心人物となる板垣退助さんは、民権ばあさん喜多ばあさんの一つ下ですきに18歳。
楠瀬喜多さんは、夫に先立たれた後、自由民権運動の演説会などに出入りしてこぢゃんと有名になった人物。美人やったそうですね。女性参政運動では、我が国の先駆者中の先駆者とも言われちょります。
ここは高知市塩屋崎。筆山の南西の麓。ここまでその昔は海になっちょって、海に突き出たこの部分が「塩屋崎」という岬。今、ここから山径を登っていくと、色んな有名人の墓地があります。その中のひとつは楠瀬喜多さんの墓。登り口の左手に、そのことを示す標識が立っちょります。
以前にも書きましたが、大正9年に亡くなった喜多ばあさんのお墓を建立したのは、あの、右翼の巨魁、頭山満(とうやまみつる)ながです。お墓にそう刻まれちょります。日本の右翼の源流、とも言われる頭山満は、大正9年の頃には右翼の大実力者、フィクサーとして暗躍しよった訳ですが、その人物が民権ばあさんのお墓を建立しちゅうのであります。何故か。それは、板垣退助さんの自由民権運動に、若き日の頭山満青年が共鳴し、立志社の演説会に土佐の高知で参加したきですね。その際、居候したがが喜多ばあさんの家。その上、福岡へ帰る旅費も、喜多ばあさんが工面してくれた恩があるがやそうです。
その頭山満が生まれたのは、安政2年4月12日。1855年でして、純信お馬が竹林寺南坊から駆け落ちする約1ヶ月前。民権ばあさん19歳の春でした。